歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第16回 高松紗都子さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。16回目の今回は高松紗都子さんにご寄稿いただきました。

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こんにちは。塔短歌会の高松紗都子です。主な活動場所は結社の湘南歌会。好きな歌人は杉﨑恒夫さんです。

2009年にふとしたきっかけで新聞歌壇を読み、自分もつくってみたい!と思ったのが作歌のはじまりでした。(あれからもう10年…)

そしてNHK短歌、夜はぷちぷちケータイ短歌、笹短歌ドットコム等に投稿するようになり、うたらば、うたつかい等にも参加し、多くの人と知り合うことができました。2010年に塔に入会し、現在に至っています。

最近では短歌投稿も短歌イベントに行くことも殆どなく、わりと狭い範囲で活動しています。諸事情によるものですが、今後も自分なりのペースで歌を続けていけたら…と思っています。

 

自選5首

誰にでもやさしい人のやさしさが深まる秋の木の実を冷やす

(塔2016年1月号)

トリノ駅を「鳥の駅」と聞く耳を持つ それをひとつの幸せとする

(塔2017年8月号)

躍らせてほしい日もある踊りたい日もある風が秋に変わった

(塔2018年1月号)

待つことの寂しさを言う日盛りに出てゆくときのまなざしをして

(塔2018年5月号)

鳥を飼い犬を飼う日々少女期は半透明の付箋のそよぎ

(塔2019年3月号)

あまり自選を考えたことがないので最近の歌の中から選んでみました。選ぶ度に違う歌になるような気もしますが…。

 

 

さて、今回私が紹介するのは短歌人会の姉野もねさん(@anenomone)です。結社で大いに活躍されているもねさんなので、ご存知の方も多いとは思うのですが、紹介したい好きな歌があるので今回、推させていただくことにしました。よろしくお願いします!

 

 

高松紗都子が選ぶ姉野もねさんの5首

もう君を浮かれさせたりできなくてキリマンジャロを丁寧に挽く

(NHK短歌2014年入選歌)

1センチ角に刻んだあの夏をぽろぽろこぼしながら生きてる

(うたの日2015年/CDTNK夏フェス2018)

信号の緑がとても鮮やかでわたしはたぶん泣きたいのだろう

(短歌de胸キュン2016年入選歌)

だんだんと愛着が湧く神様にお借りしているこの着ぐるみに

(歌会たかまがはら2016年採用歌)

走馬灯がきっと短い終わること始めることが下手なわたしは

(短歌人2019年3月号)

 

 

もう君を浮かれさせたりできなくてキリマンジャロを丁寧に挽く

 

ふたりが浮きたつような思いで向き合う時期は、やがて過ぎてゆくものなのでしょう。その後は淡々とした日常が続き、例えば、ある時点で結婚というかたちに変わることも。

共に過ごす月日のなかで、もはや相手を浮かれさせられないと気づいてしまうこと。それは少し寂しいことかもしれないけれど、この人は関係性の変化を自覚して受け止め、その先を生きていこうとしています。

キリマンジャロを丁寧に挽く」という行為には誠実さがあらわれていて、日々をきちんと生きている感じがします。これは、あきらめとは違うんじゃないかな…未来へ向かう意思があって。

広がるコーヒーの香りとほろ苦さが良いですね。キリマンジャロという銘柄の山の名前にも人生を思わせるものがあります。

この歌を初めて見たとき、じんわりと心に沁みてくるものがありました。とても好きな歌で、今あらためて読んでも、ちょっとウルっとしてしまいます。

 

 

1センチ角に刻んだあの夏をぽろぽろこぼしながら生きてる

 

「あの夏」は、思い出に残るたいせつな夏なのでしょう。それを刻んでとっておいて、糧とするようにして今を生きているのでしょうか。

或いは何か料理をしている場面を重ね合わせているのかもしれません。野菜や果物を細かく刻むことが、どこかで夏の思い出に結びついているのかも。例えば、キャンプとか。

1センチ角に刻まれた夏はキラキラしていそうです。指先からぽろぽろこぼれても、きっとまぶしくきらめくのでしょう。

なつかしい輝きを、少しずつ、少しずつ手放してゆくのですね。「生きてる」が小さな呟きのように聞こえてきて、せつない気持ちにさせられます。

 

 

信号の緑がとても鮮やかでわたしはたぶん泣きたいのだろう

 

信号の色の鮮やかさから自分の悲しみに思い至るという繊細な感覚に心をひかれました。

「泣きたいのだろう」と言いながら自分のことを見ている、もうひとりの自分がいるのですね。ストレートに「泣きたい」というより、この客観視が悲しみをより際立たせていると思います。ちょっと放心しているような感じ。

もしかしたら、信号の眩しさに瞳が涙を感じて、深い心情を呼び起こしたのかもしれません。青信号は進むことを意味していますが、何かにとらわれている心の澱みがあるのでしょう。

 

 

だんだんと愛着が湧く神様にお借りしているこの着ぐるみに

 

この世に生きる自分を仮初めのものとしてとらえ、今の姿を着ぐるみに例えています。着ぐるみというからには、どこかしっくりこない違和感や生きづらさがあったのでしょう。

でも、その姿に愛着が湧いてきたのだといいます。それは自分を認め、肯定できるようになったということかもしれません。

いつか地上の世界を離れる日まで、我が身を大切にしようという真摯な思いが伝わってきます。着ぐるみのやわらかさ、温かさまで感じられるようです。

 

 

走馬灯がきっと短い終わること始めることが下手なわたしは

 

何かを終えるのも始めるのも上手くできないという「わたし」。それは慎重だったり臆病だったり不器用だったりすることかもしれません。

そんな自分のあり方を走馬灯に結びつけていることに驚きます。これは、おそらく人生を振り返るときに見るという走馬灯ですね。

あまり多くのことに手を出してこなかったゆえの短さ。でも、そのような生き方には思慮深さや落ち着き、豊かさがあるはずです。

熟慮して始めたことを大切に続けて、きっと簡単にはやめない人なのでしょう。そんなことを考えさせてくれる味わい深い歌だと思います。

 

 

もねさんの歌には内面を穏やかに見つめるまなざしがあります。自身の弱さをも受け止めて、真摯に向き合っている人の姿が見えるようです。

そして、感情に流されない表現が、歌の輪郭をくっきりとさせています。それが表面的に調えたものではない、心の奥底を丁寧に掬った言葉だからこそ、読む人の心に響くのだと思います。なんていうか、ぐっと胸に来るんです…。

 

余談ですが、何年か前の短歌イベントの後に、もねさんとふたり駅を探して夜の街をさまよったことがありました。今回の原稿を書きながら、その幻のような出来事を懐かしく思い出しました。

 

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ありがとうございました。

歌人リレー企画「つがの木」は、ネット歌人編、学生短歌会編ともに一旦休止となります。今までご寄稿いただいた歌人のみなさんに心よりお礼申し上げます。たくさんの応援ありがとうございました!

今後の情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○11月24日の文学フリマ東京で同人誌「さんばし vol.1」を発行します。詳しくはこちら

 

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不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

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歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第12回 乾遥香さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編第12回です。いつもご覧いただきありがとうございます。今回は乾遥香さんをお迎えします。

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こんにちは。乾 遥香(いぬい・はるか)です。所属は、武田穂佳さんと初谷むいさんとやっている獏短歌会と、1996年生まれの短歌同人誌「ぬばたま」です。そのほか、早稲田短歌会や北赤羽歌会によくいます。歌会でお会いしましょう。

作品がまとめて読めるのは「ぬばたま」で、第四号は11月24日(日)の文学フリマ東京で頒布予定です。既刊の通販も受け付けているので、ぬばたまのツイッター( @nubatama_96 )から、よろしくお願いします。

また、文フリの前日には山階基さんの『風にあたる』批評会でパネリストをつとめさせていただきます。こちらもご興味のある方はぜひ、ご参加ください。

今年も短歌をがんばっていく年にするつもりなので、わたしの活躍を見守っていただければな、と思います。

 

 

自選五首

 

さくらんぼ絵に描くときはふたつずつ それでふつう、になるまでの距離

「何階で降りるの?」(「バッテラ14号」2018.1)

 

口紅を塗りあうことの面映ゆく春から秋までは同い年

(大学短歌バトル2019 決勝戦「春」2019.3.2)

 

めずらしくきみがマフラー巻いていて今日が寒い日だってわかった

「ちはやぶるきみがいるから」(「ぬばたま」創刊号2017.5.7)

 

脱いだ服をかるくたたんでくれているこれは生活とはちがうのに

「水やりと傘」(「ぬばたま」第二号2017.11.23)

 

微笑みつつ話せば過ぎたことになる怒りすべてについてくる月

「Iris」(「ぬばたま」第三号2018.11.25)

 

 

 

わたしが紹介するのは、濱田友郎(はまだ・ともろう)さんです。

濱田さんは京大短歌に所属されている方で、機関誌「京大短歌」や同人誌「鴨川短歌」「tanqua franca」などで作品が読めます。

濱田さんの歌が良いのは周知の事実だと思い込んでいたのですが、まだ歌集を出されていないので、学生短歌会の機関誌を手に取る機会のない方はまとめて読むことがないのかもしれない……と気づき、ここでご紹介することにしました。この記事が潜在的濱田友郎ファンの方々に届きますように。

 

 

乾が選ぶ濱田友郎の五首

 

スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち 音ゲーが好き

 

「一切の望みを捨てよ」(「京大短歌22号」2016.2.29)※「音」に「おと」とルビ

 

きみだけがぼくに希望をクレタ島 興がのったら海でおよいで

 

「最終話」(「京大短歌23号」2017.8.31)

 

ぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ ロン 九蓮宝燈

 

「そこにいるための技法」(「tanqua franca」2017.11.23)※「九蓮宝燈」に「ちゅうれんぽうとう」とルビ

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

「旅番組について」(詩客2017.9.2)

 

嗚呼ぼくときみのどちらかがぼくでありその退屈さ 雪はすべって

 

「これがわたしの記憶です」(「京大短歌24号」2018.7.28)

 

 

濱田さんの歌は、好きな人はめちゃめちゃ好きだし、わからない人にはよくわからない歌だと思われている、という印象があります。正直、わたしが普段歌会で使っているものさしだと濱田さんの歌の良さは語れないのではないかという疑いはあるのですが、そのあたりは関連する濱田友郎作品を引いてわたしの論を補強するというかたちで五首+α、紹介していきます。以下、敬称略。

 

 

 

 

スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち 音ゲーが好き

 

 

わたしが濱田友郎の歌といってまず思い出すのがこの歌。

 

「スリザリン」「グリフィンドール」は、一応説明しておくと、ハリー・ポッターの舞台であるホグワーツ魔法魔術学校の四つの寮のうちの二つだ。ほかにハッフルパフとレイブンクローという寮があるが、物語の中心として大きく関わってくるのは、主人公ハリーの属するグリフィンドールと、そのライバルであるマルフォイの属するスリザリンのほうで、わたしたちはハリー・ポッターという物語を鑑賞するとき、その二つの寮生の対立を見ることが多い。もちろん、作中で取り上げられていなくても、ハッフルパフにはハッフルパフの、レイブンクローにはレイブンクローの寮生活があるのだが。

 

「スリザリンもグリフィンドールも駄目だった(みたいな気持ち)」ということは、主体が与えられたのは主人公やそのライバルの役ではない(ような気がしている)、ということであり、「駄目だった」という表現から感じられる、組み分け帽子をかぶるまでのわずかな期待が、この歌にかなしい雰囲気を漂わせる。

外部の作品の設定やフレーズを短歌のなかに引用するのは、その作品が有名であればあるほど、むずかしいことだが、ハリーの寮がグリフィンドールに決まるまでのあのシーンの緊張感を、二次創作としてではなく、元のストーリーに飲み込まれない強度を持ってここに引用してきたことが、まずこの一首の手柄だろう。

 

ハリー・ポッターの物語で、寮が途中で変わることはないように、主体は主体の人生の真っ最中であり、別の設定の人生に転入したり編入したりすることは起こり得ない。この人生が続く限り主体は、「みたいな気持ち」をことあるごとに感じるのではないか。そして、「スリザリンもグリフィンドールも駄目だった」ことは、(主体自身にも、読者のわたしにも)変えようがない。

しかし、その「みたいな気持ち」を想像した読者が主体のがっかり感を受け取る前に、すっと差し出されるのが「音ゲーが好き」という結句だ。このなんの役にも立たなさそうな追加の情報が一首全体の雰囲気を<がっかり>には留めない。とはいえ、「音ゲーが好き」によって完全に上書きされるわけでもなくて、結句から読後にかけてうっすら響いてくる「スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち」……の薄いけど確かな存在感は、なにかに失敗したあとそのことがまだ記憶に新しいときの感じ、に似ていると思う。

濱田友郎の歌には読後にその感覚になる歌が結構あって、たとえるなら、コップのお茶をこぼしてしまったあとのような。机は拭いたし新しいお茶も注いだけどなんだか落ち着かない、そういう感覚がこの歌の余韻として漂っている。近い読後感の歌として、同じ連作からもう一首引く。

 

椰子を蹴れば匂いがするよこの感じ、こんなのは人生だからだめ

 

人生のただなかにいる人間が「人生」を把握して「こんなのは人生だからだめ」と評価を口にすることは、漫画のなかのキャラクターが「コマ」に言及しているような、メタ的な表現にも感じられる。濱田の歌は、世界を作り手の意図がある創作物のように捉える見方をよくしている。

 

 

 

きみだけがぼくに希望をクレタ島 興がのったら海でおよいで

 

 

クレタ島」と「(希望を)くれた」をかけるというわかりやすい掛詞に目が行く。それによって一瞬、これはギャグの歌なのか〜で済ませそうになるけど、よく読むと、「ぼくに希望を」くれたのが「きみだけ」であることの狭さと悲しさ、がここにはある。あるはずなのに、この歌は「島」をポイントとしてちょうど水中でターンをするように方向を変え「興がのったら海でおよいで」という楽しげなフレーズへとすすむ。

現代短歌を読んでいて「きみだけがぼくに希望を」で始まる一首があったときに、自然とをその先の流れを考えてしまうが、読者の予想する通りの方向には進んでくれないのが濱田の歌であり、その展開に読者のわたしは惑わされる。

 

一首目もそうだが、前半でかかっているストレスに対して、そこから解放されたように一字空け以後の言葉が提示されるという構造をしていて、

「スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち」のあとの「音ゲーが好き」

「きみだけがぼくに希望をクレタ島」のあとの「興がのったら海でおよいで」

を一首のなかでそれぞれ見比べたとき、歌の前半と後半で、主体の気持ちはほんとうに切り替わっているのかもしれないけれど、ストレスに対して虚勢を張っているように見えなくもない。後半が、主体を見ている誰か(あるいは、この歌を鑑賞している読者)を意識したポーズのように見えてしまったわたしには、この歌がかなしい歌に思えてくる。

濱田友郎の歌を変な歌だと思っている人は多いだろうし、それはたしかにそうなんだけど、わたしは濱田の歌をくりかえし読めば読むほど、変さ以上にかなしさを受け取りたくなる。

 

 

 

ぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ ロン 九蓮宝燈

 

 

※以下、評の都合で映画「トゥルーマン・ショー」のネタバレがあります。知りたくない方は次の歌へ。

 

映画「トゥルーマン・ショー」は、トゥルーマンという、アメリカの離島「シーヘブン」で保険会社に努める明るい青年が主人公。彼は「水恐怖症」のために、30年以上の人生で島を出たことが一度もないが、実はこのシーヘブンの街は全てが巨大なドーム状の作り物。トゥルーマンは生まれた瞬間から24時間常に人生を撮影されており、しかもその映像はリアリティーショーとして1秒残らず世界中に生放送されていて、それを知らないのはトゥルーマンただ一人、という世界。

 

というあらすじを踏まえた上で、この歌を読んでいく。

まず、この歌を含む「そこにいるための技法」は、島をテーマにした連作だ。同じ連作に

 

雪が降るといえば冗談になる土地でわたしは冗談が好きだった

 

という、とても良い歌があるけれど、あまり雪が降らない南国のような島にいると、「雪が降るといえば冗談になる」。そのように、島など、外部から隔離された場所には、その中で作られてそこでだけ通用するルールや雰囲気や決まりがある。主体はどこかの島で暮らしていて、その島が外の世界から閉ざされた場所であることを意識する。だからトゥルーマンと自分が重なる。

 

九蓮宝燈は麻雀の役で、わたしは麻雀をやらないので人に聞いたところ、ポーカーのロイヤルストレートフラッシュくらい、出現する確率が低いものらしい。その役が出る。仕組まれた世界だからこそ出る九蓮宝燈は、通常なら素直に驚いたりその幸運に喜んだりすればいい役だけど、この世界が作り物だと気づいてしまった主体は、九蓮宝燈に対して自分がとるリアクションを見ている観客の存在にも気づいている。ここまで書いてわたしは、これは麻雀の役と物語の役というところまで考えられた歌である気がしてくる。なにがどこまで仕組まれているのかはわからないし、疑い始めたらキリがない。

それでも九蓮宝燈であがるという姿勢。気づいた上で主体は主体という役をつづけていく。その姿勢が、やはりかなしい。

 

気づいていることによるかなしさが濱田友郎の歌にはあって、物語のようにドラマチックなことは人生にはそうそう起こらないし、その人生そのものも永遠には続かない。人生に/出来事に/今日という日に 期待していないからこそ、こんなに冷静に世界を見ているのだろうか。ここまで引いたのは自分自身や世界へ言及する歌だったが、濱田の歌はものへの視線にも独特の冷静さがあると思う。

 

 

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

 

……の話をするために引用したい評があるのでいきなり同じ連作の別の歌にうつるけれど、

 

ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げてとひまわりに言えるのか

 

ミサイルのことがニュースで語られるときに心配すべきは自分の身の安全であって、ひまわりまで視界に入れる必要はない。けど、見ている。

この連作が掲載されている詩客の、浅野大輝による相互評

( https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/3c92991212d7bd569d9119fc5862c87f  )に、

 

  「屋内にいる場合:窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」という文言は、最近よく耳にするものだろう。これは内閣官房国民保護ポータルサイトに掲載されている「弾道ミサイル落下時の行動について」中の一文であるが、「ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げて」というのはそのメッセージを受けてのものと推測できる。このメッセージは、自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである。

 

とある。「自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである」ことを、主体は理解した上で、そのことに疑問を抱いているような視線で<自分の意思で移動できないもの>を見る。同じ連作からもう一首、わたしが好きな歌を引く。

 

駅にある小さな本屋に選ばれた小説なのだ 雨はつづいて

 

この良さを、景の美しさや気づきの歌として処理してしまってもいいけれど、なんでもない雨の日の風景がこの歌のカメラで切り取られることによって、<自分の意思で移動できないもの>としての「小説」が人間によって選ばれて人間の意図によって小さな本屋に置かれるまでの流れを意識させられる。なんでもないように運営されているが世界には<誰かの意図>が蔓延している。

 

さて、話を戻して、

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね…

 

その見方で、年金というシステムに言及する。システムというものは、変えようと思っても個人の力ではどうしようもないし、集団の力を持ってしてもどうにもならないことが多い。

「ならね……」という言いさしは短歌の批評によく使う語でいうと「諦念」になるのだろうが、この歌からは諦めというより、どうこうしようとしてなさ、を感じてしまう。<誰かの意図>に対抗する‘力’として<自分の意思>というものがあるはずだが、主体は<自分の意思>が反映される範囲の狭さをよくわかっている。

 

歌の構造を見ていくと、初句「ドーナツ」の時点で読者の頭にあったドーナツのイデアのようなぼんやりしたものは、四句目で「ポン・デ・リング」に姿を変える。

「母」がもらえる年金が全部でいくらなのかは知る由もないが、少なくともポン・デ・リング(¥100+税)に換算したら相当な数になることが予想される。母の元に溢れかえるポン・デ・リングポン・デ・リングというドーナツは、1つを8粒とも数えられるようなかたちをしているが、歌のなかの「・」「……」によって、視覚にたくさんの●が現れ、数を用意すると迫力を増すドーナツとしてポン・デ・リングというものはあるなぁ、ということに気付かされる。

さて、四句目で「ポン・デ・リング」と言われた読者は、ポン・デ・リングのあのかたちの像を頭のなかに無数に結ぶが、その数をリアルに感じる前に「ならね……」にすべてを掻き消される。下句のあまりの急展開に、一瞬なにが起こったかわからなくなるが、現実にはなにも起こっていないので安心してほしい。どれだけ願っても、現実のシステムに影響することはむずかしく、主体も読者も、そのことをわかっている。

 

 

 

嗚呼ぼくときみのどちらかがぼくでありその退屈さ 雪はすべって

 

 

ぼくときみの二人(の、多くの場合、素敵さ)を切り取ってきて一首として加工するというのは、短歌によくある形だが、この歌のなかのきみとぼくはただ存在するだけで、特別なことはなにも起こらない。

 

「雪はすべって」は、どう読むのがいいのか正直わかっていないけれど……雪の上は滑りやすいということか、はたまた、雪が降るさまを滑るようだと言っているのだろうか。この表現から特定はできないが、助詞が「は」であるから、雪が降ると自分はどうこうという話ではなくて、純粋に「雪」というものの特性を捉えて語っているのだろう。

 

主体は「ぼくときみのどちらかがぼくであり」と言っているけれど、ふつうに考えれば「ぼくときみのどちらか」のうち「ぼく」であるのはぼくのほう、でしかありえない。ぼくはぼくでしかなく、きみはきみでしかない。言い換えれば、自分が他者と入れ替わることはないし、自分と他者が融合してひとつの個体になることもないという、現実世界でごく当たり前とされているルールをここで主体は確認し「その退屈さ」を思う。

 

たとえば、アニメの世界によくある入れ替わりがわたしたちの現実に起こってしまったとして、多くの人はそのような怪奇が起こることを嫌がりそうなものだけれど、主体は、いま起きていることが全く複雑でなく、むしろ単純であることに対して「退屈さ」を感じて「嗚呼」と言う。

劇的な変化が起こらない世界は、主体にとって、対象年齢の低い玩具でずっと遊ばされているようなつまらなさがあるのかもしれない。それがどれだけお気に入りの玩具だったとしても、仕掛けがわかってしまったら、わからなかった頃のように素直には遊べない。

 

ゆばりをからだから棄ててゆきかなしくもうれしくもない宇宙と思う

「誕生日おめでとう」(「NHK短歌2月号」「ジセダイタンカ」2018.1.20)

 

という歌があるけれど、まさに「かなしくもうれしくもない宇宙」の一部としてのこの場所に、ぼくときみはいる。

「ジセダイタンカ」は歌人を紹介する企画で、連作のほかに作者の自己紹介のような短文があり、そこで濱田友郎は

 

  昔から手品というものに憧れがありまして、つまり、コインなどをてのひらで遊ばせているうちに、ふつうの物理法則ではありえないことがおこる。消えたり瞬間移動したり……そういうマジカルな作用を定型で起こしたい、というのが私の目標です。

 

と書いている。それを読んで、濱田の歌を読んでいると読者のわたしの気持ちを予想外の方向へ誘導されたような感覚があることに納得が行く。濱田友郎はエンターテイナーだな、と思う。

 

 

8月7日に伊舎堂仁がツイートで、

 

雪が降るといえば冗談になる土地でわたしは冗談が好きだった

(「そこにいるための技法」)と、

ひとくちめのたばこは空中庭園にとどいたゴルフボールのふるえ

(「最終話」)という歌を引いて、

 

  (自分の歌集でのそれらも含め)ボタンでライトが点くような、引いたぶんチョロQが走るような事くらいしかそこでは起きてないような【冗談】が「短歌」においては多いなか、挙げたような濱田さんの歌には、ほとんど生きもの一匹定型にかくまってるような〈次どう動くのか〉分からない感じがあると思う

(@hito_genomさんのツイート(https://twitter.com/hito_genom/status/1159090203950059520?s=09) )

 

と評していた、その『ほとんど生きもの一匹定型にかくまってるような〈次どう動くのか〉分からない感じ』というのが濱田友郎がやっている手品で、わたしは手品を見るのが好きだ。

あなたが、世界に期待していても、世界を諦めていても、濱田友郎の歌は面白いと思う。

 

 

 

 

「京大短歌25号」をまだ入手できていないので、最新作の話はできなかったんですが、わたしに未読の濱田友郎作品があることがうれしいし、まだまだ世界にはたくさんの良い歌が隠れているのだろうなぁ、という気持ちになります。濱田さんの歌をもっと読みたいと思った方は、「京大短歌」は現在通販を受け付けているようなので、ぜひ読んでみてください。

ここまで、世界の捉え方をベースに濱田さんの歌を読んできましたが、わたしの話ですこしでも濱田友郎の短歌の魅力が伝わっていたらうれしいです。また、濱田さんの歌を知っていてよくわからないと思っていた人に、読み方の道筋のうちのひとつを提供できていたら幸いです。

 

濱田友郎さんの作者としての今後のご活躍を、楽しみにしています。

また、これを読んだあなたの読者としての営みが豊かになることを願っています。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

 

遥香

 

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ありがとうございました。

更新予定

9月4日(水) ネット歌人編 高松紗都子さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

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不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

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歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第15回 やじこさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。15回目の今回はやじこさんにご寄稿いただきました。

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自己紹介

こんにちは、やじこと申します。

おもにTwitterにいます。(@yajco)

 

ご紹介いただいたはだしさんから、

「ちいさな事を気にしてしまう主体だからこそ、

普通に生きていたら見逃してしまいがちなモノを

見つけてしまうんだろうなって。」

と評していただきました。

ありがたい。

しかし、実際のぼくは、

かなり大雑把であいまいな性格であります。

 

いやでもだから、ほら、

短歌に惹かれるのかなと思いましたよ。

 

日々の何気ない感情の動き、

発見や、おどろきや、ゆらめきや、

ときめきや、さびしさや、切なさは、

何もしなければすぐに忘れてしまいます。

ほんと忘れちゃう。

そこで立ち止まって、

何が起こっているかをしっかりと見据えて、

その意味を受け止める。感じる。

それを正しい形で、結晶化する。書き記す。

それが短歌を詠むということなのではないか。

 

それがどんなに目の前の現実と乖離した、

不可思議な表現であったとしても、

ほんとうは、そっちのほうが、

だんぜん「正しい」世界なんじゃないか。

そういう短歌に出会えたとき、

そういう短歌を作れた(と思った)とき、

なんだか救われた気持ちになります。

短歌って、いいわぁ。

 

短歌を作り始めたのは2014年ごろのことで、

そこから2年ほどコンスタントに作り続けていました。

今思えば、あの頃のぼくには、

短歌を作るということが、

切実さを持って必要だったんだと思う。

現実の世界が、ちょっとずれて見えていた。

ほんとうはそうじゃない気がしていた。

 

人にはいろんな時期があると思うけれど、

短歌に出会えたことも、

あの頃よく作ったことも大切なことだった。

人には「歌」が必要なときがあるのでしょう。

 

 

自選5首

背中からぱっくり割れて虹色の羽化がはじまる気配の猫背

歌人のふんどし 「くるぶしの国」)

 

ベランダに落ちた星座の配線について宇宙の窓口に聞く

(じゃこさんのフリーペーパー『バッテラ』04)

 

食欲は連日連夜押しかけて生きよ生きよと僕らを脅す

Twitter

 

さみしい、と冬は泣いたりしませんがカーテンの裏にこぼれた結露

(うたらば2017年1月)

 

蜂蜜をかけたらはちみつパンになる お前も好きに生きたらいいさ

Twitter

 

 

紹介させていただくのは、高松紗都子さんです。

ツイッターのアカウントは@satocott 。

ブログ「羽うさぎのうた」http://usacoco.cocolog-nifty.com/blog/

 

塔短歌会に所属されていますが、

ネット上でも活躍されています。

ぼくが短歌を作り始めた頃からそこにいて、

憧れた歌人のひとりでした。

 

紗都子さんの歌、好きだなぁ。

普段の生活のなかで、世界が揺れる一瞬を、

ちゃんと見ている。

あわてずに見ている。

それが何なのかを落ち着いてとらえて、

正しく表現しようとしている。

そのたたずまいが美しい。

平易な言葉を使いながら、

紗都子さんにしかできない言葉で表現でされる

世界がすばらしい。

そんなふうに世界が見えたらよいのに、

と、憧れを持って眺めています。

 

 

やじこが選ぶ高松紗都子さんの5首

 

かなしみに加速がつけばスカートの裾をほつれる糸のいきおい

 (塔2014年5月号)

 

この歌はほんとうに素晴らしい。好き。

なぜ? がうまく表現できません。

かなしみの歌なのに、ドライで、速くて、

ああああああという感じ。

ああああああ。

一時期、なんでこんなにいいんだろうと、

構造を分析したことがあります。

ふだんそんなことしないんですが。

同じような語順で言葉を並べてみたら

同じように魅力的に見えるんじゃないかと、

仮設をたてて。

いや、そんなに簡単なことじゃあなかった。

 

 

くりかえすことのしあわせ何度でもホットケーキは円形になる

(塔2013年10月号)

 

これまた、好みのタイプの歌でして。

何度でも、っていいですよね。

しあわせが何度でも。

たしかにしあわせは、

ホットケーキのかたちをしているだろう。

ねぇ。垂らせば、勝手に、丸くなるんだぜ。

ホットケーキたべたい。

 

 

ゆり、すみれ、さくら、ひまわり幼子の日々がいつしか花園になる 

 (うたらば2016年8月)

 

そうだよなぁ。幼稚園のクラスの名前は、

たいてい花の名前だったり動物の名前だったり。

その時はあまり意識しなくても、

時間がたち、遠景としてのその時代は

まるでお花畑や動物園だ。

心をキュッと掴まれるような、

しかし、しあわせな歌が好きです。

 

 

戦わぬ属性なのだと言いきかせ虚心をたもつ真夜中もある

 (うたらば2013年10月)

 

そう。生きていくことは、実際には単純ではない。

しかしそれでも、という覚悟がいい。

投げやりじゃない、んだよなぁ。

斜に構えてもいない。

そんなものはないと、無視するわけでもない。

 

結果として逃げてしまうかもしれない。

避けられるなら避けるだろう。

でも立ち止まって、ちゃんと見る。

わたしはわたしとして生きる。かっこいい。

 

 

説き伏せる言葉の圧を避けるとき子の背はすこし伸びるのだろう

 (うたらば2014年6月)

 

先ほどの歌と、同じような覚悟。

生きていく上での覚悟。

そうだね、そうやって

人は成長していくんだろう。

歯向かいたいわけじゃなくても、

人と人である限りズレはかならず存在する。

僕は私は違うと、目線を少しずらしたとき、

人はちょっと大人になる。

道徳としてでもなく、How toでもなく、

詩として、生き方として、

この覚悟を伝えられたらいいね。

こどもたちに。

 

 

好きになる速度角度が一致してただ一点で出会ったふたり

 (うたらば2013年4月)

 

最後は愛の歌を。

良く思います、なんてこの世界は

偶然でできているんだろうと。

歯を磨くタイミングも、

通学路のちょっとしたつまずきも、

きまぐれなおはようも、

ぜんぶがぜんぶあって、積み重なって、

降り積もって、今がある。

じゃあその全てが、ただただ偶然なのか。

愛は偶然なのか。

いや、

好きって気持ちの「速度角度」がその瞬間、

天文学的確率で一致したのだ。

人はそれを奇跡と呼ぶ。

 

 

以上でした。あれ、6首あるじゃん。

まぁ、ちょっと大目にみておくれよ。

みんないい歌なんだもの。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

8月14日(水) 学生短歌会編 乾遥香さん

9月4日(水) ネット歌人編 紗都子さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

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歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第11回 岩瀬花恵さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編第11回です。いつもご覧いただきありがとうございます。今回は岩瀬花恵さんをお迎えします。

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こんにちは。初めまして。東北大学短歌会の岩瀬花恵と申します。

1998年生まれ、岩手県盛岡市出身、宮城県仙台市在住。東北大学文学部の三年生です。大学に入ってから短歌を始めたので、歌歴は2年半ほどです。

短歌の友達がたくさんほしいです、よろしくお願いします。

(twitter:@__ikgsr)

 

 

自選5首

 

言葉は泡 水族館は陽だまりの反対みたいな色をしている

 

(「アパートに帰る」『東北大短歌 第4号』)

 

なるべく賢い獣の名前で呼び合えば日々はただ木漏れ日の仕草で

 

もう君の望むことしか言えないよ灰皿に落ちる無数の蛍

 

(「木漏れ日」『東北大短歌 第5号』)

 

しりとりの速度で街は暮れてゆく一人で生きていけぬ喜び

 

世界のための私のためにスーツ屋はスーツしか置いてなくてありがとう

 

(第4回大学短歌バトル)

 

 

わたしが今回ご紹介するのは獏短歌会の乾遥香さんです。

彼女の活躍ぶりはみなさんご存じでしょうから、私がご紹介するまでもないかとは思いますが、でもやはり全力で彼女を推しているので書きたい!と思い御指名させていただきました。

 

岩瀬が選ぶ乾遥香の5首

 

早足に駅へと向かうもう靴がきつくならない大人になって

 

(「ちはやぶるきみがいるから」『ぬばたま 創刊号』)

 

わたしからわたしが飛ばされないようにきつめに留めておくイヤリング

 

しばらくはきみにわたしを使いたい恋人つなぎは祈りのかたち

 

(「水やりと傘」『ぬばたま 第二号』)

 

昼の鳩 たとえ行くなと言われればどこにも行かないのに 夜の鳩

 

泣きながらわたしは無料じゃないことを有料でもないことを泣きながら

 

(「Iris」『ぬばたま 第三号』)

 

 

一首目。

大人になったなあ、と自覚する瞬間は何度でも訪れます。充足感に満ちるときもあれば、少女や少年であった自分が失われていくような切なさを伴うときもある。その切り取り方として、足のサイズがもう変化しないという気づきがとても面白いと思いました。

親と靴を買いに行って、それまでのサイズでは合わずに大きいものを買って帰る。当時はなんでもなかったことが、大人になった現在、質量をもった記憶として訪れること。

それでも主体は早足で駅に向かっている。どこへ行くのか、誰に会うのか、一首としても完成されていますが連作の中でとても機能する一首だと思いました。

 

二首目。

身支度をするとき、その後に何があるかによって気合の入り方が変わりますよね。化粧やアクセサリーをする人ならなおさら。

この歌の主体は、どこか不安を抱えながらも戦いに行く人なのでしょう。会ってしまったら自分を失ってしまうようなことがある。それを「わたしからわたしが飛ばされ」る、という表現で伝えているのがとても響きました。

そういうときに自分を自分足らしめてくれるもの、目に見えてかたちを持っているものとして主体はイヤリングを着ける。アクセサリーには覚悟や決意が伴っているのだと気づかせてくれる一首です。

 

三首目。

交際をすること、あるいは、手をつなぐような(しかも恋人つなぎの)関係になること。その状態を「きみにわたしを使」う、と表現していることが美しい。求めるのではなく、捧げるような気持で相手と向かい合っているのがこの表現ですぐに伝わります。

「しばらくは」という永遠性の否定や「使いたい」という願望のかたちであることがさらに引き立て、恋人つなぎを「祈りのかたち」という。主体の想いが信仰の域に達していて、そしてその祈りには「きみ」も加担している。

人と人とのつながりをここまで神聖に、しかしカジュアルに表したこの歌はすごいと思いました。

 

四首目。

これはもう言葉で説明する必要がありますか?というくらいにやられてしまった歌です。

「たとえ行くなと言われればどこにも行かない」。けれど相手はそう言ってはくれず、また、主体からもここにいたいとは言えない。相手との途方もない距離がこの一言に詰まっています。

「昼の鳩」と「夜の鳩」は同じ場所にいたとしてそれぞれ別の鳩であるのに、我々は”鳩”としか認識しない。相手も、会うたびに変化する主体を同じ人として扱う。日々を共有できない寂しさ、やるせなさがとても刺さりました。

 

五首目。

自分を値踏みされ、軽んじられること。「わたしは無料じゃない」ということは感じることが多く共感しやすい言葉ですが、そこへ「有料でもない」と畳みかけられはっとしました。

使われるために、買われるためにわたしは存在しているのではない。わたしは、わたしは。どう言葉を尽くしても伝わらないことを、主体は必死に、「泣きながら」思っている。

この歌自体が本当に泣いているような真摯さを伴っています。

 

 

 

乾さんの短歌は、譲らない短歌だと思っています。

 

ぜったいに自分の言葉や感性で表現することを譲らない。でも、読んでいるあなたたちにわかってもらうことも譲らない。戦っている短歌です。

自分の表現を優先して読者を突き放すとか、わかりやすさを優先して自分の言葉を切り崩すとか、どちらかに傾いてしまえば楽な時もあるし、思い得ない高評価を受けることだってある。

でも乾さんはぜったいに譲らないんです。

相手の目を、たとえ自分が泣いていようとキッと見つめて、そこへまっすぐに歌を運ぼうとする。

彼女の短歌に向ける言葉やまなざしは尊い。素敵な人です。

 

今回はこのような機会をくださりありがとうございました。

書いていてとても楽しかったです。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

8月7日(水) ネット歌人編 やじこさん

8月14日(水) 学生短歌会編 乾遥香さん

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歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第14回 はだしさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。14回目の今回ははだしさんにご寄稿いただきました。

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こんにちは。短歌結社「なんたる星」所属のはだしといいます。よろしくお願いします。主な活動場所は、Twitter (@hadashinomanmay) や「なんたる星」、うたの日などです。あまり外に出ないので、ネット歌人度は高いほうかもしれません。大喜利好き。

 

ここからは宣伝になりますが、この度、所属する「なんたる星」に新メンバーとして谷川電話さんが加入することになりました。発表媒体についても、パブーの閉鎖に伴い7月号からnoteの方へ移行します。今後の詳細については随時公式アカウントで情報を出していきますので、そちらもフォローよろしくお願いします。

 

「なんたる星」Twitter公式アカウント

@nantaruhoshi

 

「なんたる星」note

https://note.mu/nantaruhoshi

 

 

 

自薦5首

 

忍者からもらった手裏剣クッキーがおいしいったらおいしいでやんす

「おれ、ない」(なんたる星、2014年10月号)

 

淡水魚としかしゃべってない 日本、けっこう広いとこなのになあ

「年末」(なんたる星、2018年1月号)

 

カップラーメンの入った引出しが開かない、引っかかってる オワタ

「るるるる」(なんたる星、2018年11月号)

 

お茶漬けがかわいそう無理させられてあんなに氷とか入れられて

(うたの日企画 短杯2015 題『夏』)

 

あたらしい手帳があたらしいままなのみせたら腰を抜かすだろうな

「アロワナ」(ネットプリント「トライアングル」シーズン2最終回)

 

 

 

わたしが紹介するのはやじこさんです。

主にTwitter(@yajco)で短歌を発表されている方です。また、うたらばやうたつかい、食器と食パンとペンなど、ネット発の企画にも多数参加されています。noteでは、過去の短歌をまとめた連作も公開されているようです。ちなみにアイコンはオリガミガリオという名前だそうです。かわいい。

 

 

はだしが選ぶやじこさんの5首

 

うしろから自転車のベル鳴らせずに 通りたいなぁって立てた音

「肝心なことは」(note、2014年7月)

 

蜂蜜をかけたらはちみつパンになる お前も好きに生きたらいいさ

「オレンジの遠心力」(note、2015年5月)

 

世界一孤独な鯨の周波数51.75Hz

「世界一孤独なくじら」(note、2015年3月)

 

私にも社団法人日本鳩レース協会にも吠える犬

「毒のない名刺交換」(note、2015年11月)

 

乗っているだけの電車で側道を走る車を追い越している

「負けないまぶた」(note、2017年3月)

 

 

 

うしろから自転車のベル鳴らせずに 通りたいなぁって立てた音

 

目の前に進行の妨げになる誰かがいて、邪魔だなとは思いつつもベルを鳴らせない。だからもちろん声もかけられない。そこで考えちゃう。たぶん瞬間的に(ベル鳴らされたら迷惑じゃないか)と(通りたい)という二つの間での葛藤がうまれていて。で、どうするかっていうと、音をたてるんですよね。着地点として、そこなの?っていうささやかな抵抗に出る主体がすごく好きです。面白いなぁって。きっとベルよりは弱いであろうその音が、この主体のキャラクターをわからせることに繋がっているのも巧いです。「通りたいなぁ」って言い方も実感がこもっていて、この歌の良さを高めていると思います。

 

 

 

蜂蜜をかけたらはちみつパンになる お前も好きに生きたらいいさ

 

自身にでも、相手がいてもいいんですけど、なにかに縛られている人をそこから解き放ってくれるような優しさや温かさを感じて、いいなってなりました。「蜂蜜をかけたらはちみつパンになる」って当たり前のことなのに、この一首の中だとその事実が頼もしく感じられて。下句のありふれたフレーズを、そうだよなって思わせてくれる力がある。とろりとした蜂蜜がパンへかけられる時のゆったりとした速さだとか、開かれた「はちみつ」からイメージされる優しい甘みが、一首全体へいい感じに行き渡っているからなのかなって思いました。

 

 

 

世界一孤独な鯨の周波数51.75Hz

 

この鯨はどうやら実在するらしくて、1980年代から各地の海で鳴く声が観測されているそうです。でも多くの鯨がもつ周波数とズレがある為に、その声が届くことはない、という。孤独っすね。そのエピソードを、いまの私と重ね合わせたり、鯨の気持ちになって詠んだりしなかった事が良さなのかなって。見えないけど、後ろにいるはずの主体が語り手に徹したおかげで、読み手はこの歌の、というかこのエピソードのもつ悲しさやその余韻をそのまま味わうことができる。事実を書いているだけだけど、たぶん主体と読み手の間での気持ちの共有はできている気がするんですよね。あくまでも主役は孤独な鯨で、主体もまた読み手のひとりとして存在するような。主体の位置がちょっと不思議で、でも言いたいことはすごく伝わってくる。いい歌です。

 

 

 

私にも社団法人日本鳩レース協会にも吠える犬

 

「社団法人日本鳩レース協会」って実在するんでしょうか。それを抜いたら「私に吠える犬」しか残らないの、面白くないですか?状況としては、たぶん社団法人日本鳩レース協会の辺りを通りかかったら犬に吠えられた、ってだけで。でもこういう書き方で出されると、この犬は協会にもなんらかの不満あるんじゃないか?とか、鳩バサバサうるせえなと考えているのでは?と思えてくる。普段の生活に埋もれてしまう本当に些細な一瞬を、発想の力で面白くみせていて、大喜利好きとしては見逃せない一首でした。そもそも主体が犬に吠えられている所もちょっと面白いです。その主体がどういう人なのかが垣間見えて。

 

 

 

乗っているだけの電車で側道を走る車を追い越している

 

自分は電車に乗っていて、それが「車を追い越して」しまった。相手は自ら車を運転しているのに、何もしていない自分の方が先へ進もうとしている、という風に読みました。日常のほんのちいさな罪悪感が歌われていて。でも電車は止まらない。自分の力ではどうにもできないということが、この罪悪感を際立たせているように思います。他の歌でもそうですが、ちいさな事を気にしてしまう主体だからこそ、普通に生きていたら見逃してしまいがちなモノを見つけてしまうんだろうなって。やじこさんの短歌の特徴の一つはそこなのではと思います。ささやかなものの代弁者、みたいな。

 

 

 

伝わっているでしょうか。評を書いてみて、ここがいいんだ!と思う部分を言葉にするのって難しいな、と改めて思いました。それからもう一つ。自分はおもしろさや微妙なニュアンス、で勝負しているような歌を選びやすいのでこうなりましたが、やじこさんはポップで素敵な歌も詠まれる方なので、よければnoteでほかの作品も読んでみてください。もしかしたら自分が選ばなかった中に、だれかに刺さる一首があるかもしれないので。

 

やじこさんのnote 

https://note.mu/yajco

 

以上です、ありがとうございました。

 

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ありがとうございました。

更新予定

7月31日(水) 学生短歌会編 岩瀬花恵さん

8月7日(水) ネット歌人編 やじこさん

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歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第10回 神野優菜さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編は第10回を迎えることができました。いつもご覧いただきありがとうございます。今回は神野優菜さんをお迎えします。

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自己紹介

こんにちは、九大短歌会の神野優菜(こうのゆうな)と申します。

1999年生まれのしし座です。標準語気味な博多っ子です。夏の雨と夜ふかしと甘いものが好きです。

高校時代の歌をまとめた個人誌『千紫万紅』や、ネットプリント『雨と柑橘』を発行したことがあります。普段はきゅうたんの歌会や、福岡歌会(仮)、ふと歌会などで短歌を楽しんでいます。たくさんの方にたくさん支えていただいています。短歌の、大切なものを大切にできるところが好きです。よろしくお願いします。

 

Twitter:@yuiha_tanka

 

 

自選5首

そばかすは天使のキスだと諭されて君の背中に翼を探す

(「天使のキス」/『千紫万紅』)

海の見える通学路だよ 綺麗ねって話しかけたいあなたのいない

(「ペパーミント」/『九大短歌』号外)

手をふられふり返すことのさびしさの街灯がいま灯ったような

(「風にほどけて」/『雨と柑橘』)

夕凪の水平線のいつだっていつまでだって見ていたい肩

(「三匹」/『雨と柑橘』)

間に合うかなって言って走り出した背中を雨が薄めていった

(「細雨」/『九大短歌』第九号)

 

 

 

私が紹介するのは、東北大学短歌会の岩瀬花恵さんです。

 

 

神野が選ぶ岩瀬花恵の5首

 

言葉は泡 水族館は陽だまりの反対みたいな色をしている

殴られることもないまま大人になる振り向きそびれた日は雨だった

(「アパートに帰る」/『東北大短歌』第4号)

ひさかたの虹と誰かが呟けば誰もが虹を求める瞳

(第4回大学短歌バトル2018 題「枕詞」)

箱の中に箱がまたあり日曜の水族館は詩のための箱

(「木漏れ日」/『東北大短歌』第5号)

はぐれないような言葉を選ぶとき君が集めてやまぬ木漏れ日

(第5回大学短歌バトル2019 予選/『短歌』2019年2月号)

 

 

 

岩瀬さんの歌を読むと、いま見えている景色をふいに切り替えさせられるような感覚があります。「させられる」と言うと強い言い方になってしまうけれど、それだけ岩瀬さんの歌の言葉選びには力があるのだと思います。その力の一瞬に、心を打たれるのです。

 

言葉は泡 水族館は陽だまりの反対みたいな色をしている

 

一首目は水族館の歌。水族館は海の中にいるような幻想的な薄暗さや静けさを持っている、というのは多くの人が抱くイメージだと思うのですが、それを陽だまりの反対みたいな色だと言う主体は、他の人にはないまなざしを持っているのではないでしょうか。水族館、陽だまり、とつづくととても穏やかなイメージの連鎖になると思うのですが、そこで「陽だまりの反対」という言い方をされることでどきっとさせられます。また、「言葉は泡」という初句はなんとも美しい言い切りだと思います。水中の泡が地上を目指してゆらゆらと昇って行くように、言葉は、言葉という形にすることで自分のもとから離れていってしまうものでもあるなあ、なんてことを私は考えました。そしていつかぱちんと割れてしまうものかも知れないし、また何度でも無限につくり出すことのできるものかも知れないと思います。こんな風にたくさん深読みをしたくなってしまうのも、きっとこの歌の魅力ですね。

 

 

殴られることもないまま大人になる振り向きそびれた日は雨だった

 

殴られることというのは、単純に誰かに暴力を向けられることかも知れないし、何かしら大きな衝撃を受けることの暗喩かも知れません。けれど、主体の日々はそうやって大きく揺れ動くことはなく、ただただ過ぎていってしまいます。振り向きそびれることなく、ちゃんと振り向けていたら、もしかしたら「殴られる」ことがあったのかも知れない。私はこの歌の「振り向き“そびれた”」という言葉選びの細やかさが好きで、この「そびれた」から読み取れる主体の心の機微は、人としてとても愛おしいもののように感じました。結句が「雨だった」であることで、最終的には一首のなかで描かれていた動作や心情や回顧が、雨によって視覚的にも聴覚的にもかき消されていくような感覚がありました。

 

 

ひさかたの虹と誰かが呟けば誰もが虹を求める瞳

 

「ひさかたの」は天空に関わる語に掛かる枕詞で、特に意味はないとされているけれど、「ひさかたの虹」と言われると、どうしてこんなにも心を惹かれてしまうのでしょう。さらに、この歌の魅力はそこにとどまらず、「虹を求める瞳」とつづきます。「求める」という言葉に含まれうる切実さや、瞳へと帰着するその華麗さに私は心を奪われました。この歌を締めくくる「瞳」の体言止めには、うっすらと水分を纏うきらめきとともに、「ひさかたの虹」を求めているがゆえのまなざしの力があると思います。「ひさかたの」という枕詞や、虹や、瞳といった歌の中の語彙の、ひとつひとつの魅力が最大限に引き出された一首だと思います。

 

 

箱の中に箱がまたあり日曜の水族館は詩のための箱

 

細かい話になってしまうのですが、「また箱があり」ではなく「箱がまたあり」の語順だったところが個人的にはとても好きで、こちらの方が歌を読むときに自然と「また」に力がこもると思うのです。「日曜の水族館は詩のための箱」とは、こちらもまたなんと美しい言い切りでしょうか。日曜の水族館はさまざまな人によって賑わっていると思うのですが、その一人一人がそれぞれに水槽に詩を見出しているように感じました。水族館の神秘的な水槽は一つ一つが詩で、その集まりである水族館全体もやはり詩で、そして、水族館を訪れる人の数だけそこにはさらに詩が生まれていくのだな、なんて思います。これは蛇足なのですが、一首目に挙げた水族館の歌とこちらの水族館の歌は、『東北大短歌』の第4号と第5号の連作のそれぞれの一首目で、どちらもはじまりが水族館の歌なのはとてもすてきだなあと思ってしまいました。

 

 

はぐれないような言葉を選ぶとき君が集めてやまぬ木漏れ日

 

こんなにもやさしい木漏れ日の光を感じた歌は初めてだなあと思いました。木漏れ日を集めるというのは抽象的な動作だと思うのですが、やはり何とも魅力的で、はぐれないような言葉を選ぼうとする心の真摯さにもつながるように感じます。「集めて“やまぬ”」の手抜かりのなさがすごく好きで、この「やまぬ」のたった三文字の持つ言葉の力に私は一瞬で心を奪われました。「はぐれないような言葉」というのも「木漏れ日を集めてやまない」というのも具体的ではなくてぼんやりしているけれど、それこそがこの歌にやわらかな空気感をもたらしているのではないかと思います。とてもとても好きな歌です。

 

 

岩瀬さんの歌には、「心を打たれる」という感覚がぴったりな気がします。それは岩瀬さんが歌に描く景色や、その景色を描くための言葉選びの細やかさ、そこに込められた心向きの強さに由来するものではないかと思います。ガラスの破片のようにときに鋭利で、美しく透きとおり、そしてたくさんの光を吸い込んだりはね返したりしながら、読者へと真心を届けてくれている、なんて思います。

 

ありがとうございました。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

7月24日(水) ネット歌人編 はだしさん

7月31日(水) 学生短歌会編 岩瀬花恵さん

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歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第13回 温さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。13回目の今回は温さんにご寄稿いただきました。

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自己紹介

 温(あたむ)です。主な活動場所(を書いてください、という指示があるのですが)はどこなんだろう……、まとまった量の歌を出しているのはTwitterと「かばん」です。東京のいろんな歌会にときどきいます、が妥当な自己紹介である気がします。なんか同人誌とかネットプリントとかやりたいですね。こういう自己紹介って難しいし照れるな~~ 影響を受けた歌人を上げるとたぶんほんとうにきりがないんだと思いますが、歌作するときには、脳内の伊舎堂仁さんと服部真里子さんと初谷むいさん的な人たちによる合議がなされている感覚があります……。変なこと言ってたらすみません。

 

自選5首

テッテレ~(笑)   するとあなたの目玉から大量の大粒の消しゴムのかす

なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ

「居酒屋から」(Twitter、2019年2月)

咽るほど献花 そうだよわたしたち飲み残しの生もグー、グーだよ

「咽るほど献花」(『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)

それはMP関節 これはただあなたと鶴を間違うわたし

「歯ぶらし取り替えっこ笑」(『かばん』2018年10月号、2018年10月)

ペンギンが三羽で泳ぐふとこっち見て言う「電話、」「電話は」「好きです?」

Twitter、2017年12月)

 

 わたしが紹介するのははだしさんです。わたしが紹介するまでもないくらい有名な歌人だと思いますが、短歌結社『なんたる星』のメンバーで、『なんたる星』をはじめ、Twitterでも頻繁に発表されています。「ネット歌人」みたいな括りに有効性があるのかはわかりませんが、それはともかく歌がいい、すごくいい、ので評をしたいです。

 

温が選ぶはだしさんの5首

 

あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになったよ

Twitter2019年6月

チョコミントアイスの余波なんでしょうかね、木漏れ日になってしまってます

Twitter2019年3月

足軽足軽としゃべって、そして深まっていく ふたりの仲は

Twitter2019年3月

親指はみかんに埋もれてる だけど、これから大逆転がおこるよ

「オセロ」(『なんたる星』2018年2月号)

ピョン吉のまぶたでやんすねぇ、おやびん 今日のことわすれないでやんすよ

「おしゃべり」(『なんたる星』2016年10月号)

 

 前提として、はだしさんの歌に対してわたしの知っている「評」なるものが意味をなすのかすこぶる自信がありません。なぜならはだしさんは、

 

シャチ #tanka

(Twitter2017年10月)

 

 とか、

 

中井貴一はドラキュラ

「きいている」(『なんたる星』2017年4月号)

 

 という歌の持ち主なので……。

 たぶんもともと思想としては、

 

一首のちからにぼろ負けするような百首をつくりたいな #tanka

(Twitter2018年10月)

 

 ということなんだろうなと思うと、あえて歌を5首選んで評することじたい根本的にスタンスが空振りである予感はするのですが、とはいえそれ以外の方法を思いつけないので、せいぜいがんばります。以下、敬語と敬称を終了します。

 

あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになったよ

 非常にうれしい気持ちになる歌。

 「あなた」が具体的に誰かなんて読まなくていい。ジャンボしいたけの収受が行われた理由も知る必要がない。ただ、「あなた」と呼びたい距離の相手からもらったジャンボしいたけがわたしの手によってジャンボしいたけカツとなったこと、それをこの人が「あなた」に(心の中で)報告したことだけが読み取るべき内容だろう。

 語尾の「よ」は、「ね」とか「です」と並んではだしの歌によく施される詩情の処理である。語尾の選択についての感覚が近い(と思う)歌人に初谷むいがいるけど、

 

絹豆腐あかちゃんみたいに取り出してきのうの愛のすべてだったね

初谷むい「愛の凡て」(『ぬばたま』第二号、2017年11月/『花は泡、そこにいたって会いたいよ』、書肆侃侃房、2018年4月)

 

 語尾に込められた温度が違う。初谷むいの「ね」がさみしいウィンク的な高温を感じさせるのに対し、はだしは、この語尾使ってそんな平熱になれる? っていう平熱ぐあいである。いやむしろ語尾によって落ち着きが増していないか、くらい。それぞれ語尾を削除してみると、語尾の効果における差異は歴然になろう。

 

あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになった

絹豆腐あかちゃんみたいに取り出してきのうの愛のすべてだった

 

 「平熱」は、はだしの歌を語るうえで欠かせないキーワードだと思う。

 

チョコミントアイスの余波なんでしょうかね、木漏れ日になってしまってます

 やーこれもほんといい歌。

 前述の「平熱」は、こういう「チョコミントアイス」とか「木漏れ日」とかの猛ってる名詞を扱うときに顕著になる。

 猛ってるというのはポエジーがあるくらいの意味で、その語彙が連れてくる具体的な手ざわりや色だけで心を動かせる語の特質のことをここでは指すことにする。「アイス」よりも「チョコミントアイス」のほうが、「日光」よりも「木漏れ日」のほうが連れてくる抒情が大きいですよみたいな話だ。しかもこの二語は相性がいい。共通して緑のイメージがあるし、一方は冷たくて一方はあったかいみたいな接続がちょうどよい距離感で噛み合うので、猛ってる歌を作るならこれだけで勝負できる。

 

チョコミントアイス売り場にふりそそぐ五月の午後の燃えて木漏れ日

(猛ってるっぽい歌の作例)

 

 しかし、そうはならない。「チョコミントアイス」と「木漏れ日」はそういう抒情方向には処理されない。構文に乗せられて「あいよ」と提示されるだけである。

 この歌は「困ってる現場責任者が言うこと」っぽい構文を持つ(台風の余波なんでしょうかね、倒木してしまってます)。ほんらいの居場所ではない構文に置かれることで「チョコミントアイス」や「木漏れ日」の猛りは沈静され、おとなしくなった状態の「チョコミントアイス」と「木漏れ日」が、あんがい居心地よさそうに並ぶことになる。『千と千尋の神隠し』の、猛り狂って走り回ったあげく海に連れられるうちにおとなしくなっちゃったカオナシ、みたいな。「平熱」とは、このような状態である。

 

足軽足軽としゃべって、そして深まっていく ふたりの仲は

 いや、足軽を設定に使うのかよ!

 こういう飛び道具みたいな(と短歌界隈では認識されうる)語を使うとき、ふつうはそこを一首のサビにしたい気持ちが働くものだと思う。というかサビを盛り上げるために飛び道具を使う、くらいのことがある。

 しかし、この歌は逆である。重きはあくまで「ふたりの仲」が深まっていく過程のうつくしさみたいなものに置かれている。「ふたりの仲は」の前の一字空けはそっちの読みどころを提示していよう。

 非日常ではなく日常の語彙として提示された「足軽」は、したがって、飛び道具などではなくごく普通に愛しい人間として歌の中に現れる。行軍中のことなのだろう。たまたま同じ部隊に振り分けられたふたりが隣で歩いていて、はじめは緊張していたところ、ぽつりぽつりと喋るうちに少しずつ打ち解けていく。読者の側も、行進という状況を自分の体験の何がしかから引っ張り出して(遠足とか運動会とか『夜のピクニック』とか)、ひたすら歩いているとなんでか普段話さないようなことも話せて思いがけず仲良くなれるようなことってあるよね、という共感に引き込まれる。でも足軽だし、戦に出たら死んじゃうのかなぁ。こんなにもふたりを人間として扱っているこの歌の、ふたりに対する「足軽」という役職呼ばわりは、戦と死の気配をその状況に付与し、睦まじさに対してわずかに俯瞰をもたらす効果があると思う。個人的にはこの歌、今回選んだ5首の中でも泣ける枠だと思うんですけどどうですか。

 はだしの歌には、ちょっと短歌界隈では見ないような語が散見される。しかし、それをもって語彙の面白さで勝負している歌人だと判断するのは早計だ。語は、文体や置きどころによって平熱化されている。やっぱり語の選択だけじゃなく、それが構築する歌のよさの人なのだ。

 

親指はみかんに埋もれてる だけど、これから大逆転がおこるよ

 書いている内容はなんてことはない。みかんを食べようとして、皮をむかんとくぼみに親指差し込んでいるときのことだろう。確かにその瞬間、指はみかんに負けていると言われればまぁそんな気がする(?)。そしてその後、親指は復活して下から皮をまくり上げ、大逆転を果たすのだと言われればそんな気がする(?)。

 はだしの歌には、一首目に挙げたジャンボしいたけカツの歌もそうだけど「その話しかしない」ことの強さがしばしば現れる。

 短歌を仮に、いかに端的な表現で強い印象を与えるかという競技だと考えた場合、「もう1個の話をする」戦法は無視できない有効性を持つ。つぶやき+実景の組み合わせでもいいし、語と語の二物衝突でもいいし、具象と喩でもいいし、ともかく1つの話では起こらない化学反応を「もう1個の話」の配置によって起こすことは、音数の限られたこの形式においてきわめて効率的だ。そういう考えの人が、みかんを食べようとしたときの親指の動きに一時的な敗北と復活の構図を見たのならおそらくこうなる。

 

親指がみかんに埋もれ、またあらわれるごとくあなたを好きであること

(もう1個の話をする場合の作例)

 

 掲出歌と比較すると(作例が下手なだけかもしれないけど)ぜんぜん違う。納得はしやすい。沈んだり上がったりいろいろあるけどあなたが好きですよ~的な感じのことを、みかんをむく動作をしたときにふと実感したのだろう、みたいな解釈が成立する。みかんと親指の話は恋愛の喩として飼いならされ、居心地よく読み終わって次の歌に移れそうだ。

 しかし、この作例からはもう掲出歌の持つ不可思議な力は奪い去られている。何の喩でもなかったときの、みかんVS親指が帯びていた寓話性。一回の現象としてより、定式的なある種の原理として説明された一時的な敗北と復活の話。背後に見えるアンパンマン、ヒールにやられるレスラー、イエス・キリスト、その他この定式に乗ってきた者たち……。「その話しかしない」ことの強さとは、読者が見通せる地平線の広さである。簡単に消費し尽くされることを拒む自由度の高さに読者は、どういう歌だったんだろう、と消化不良のままドキドキしながら次の歌に移ることになる。そういうことのほうが、「済」のハンコを歌に押し続ける作業よりも何倍も豊かだと思う。

 

ピョン吉のまぶたでやんすねぇ、おやびん 今日のことわすれないでやんすよ

 これはもう評するとかそういうのではない。最高か。

 ……だとこれで終わるので、部分的にでも歌に触れてみたい。「ピョン吉のまぶた」はもうタッチしない。これに言及することは、美術館で絵に直接触るみたいな行為である気がする。良すぎる。

 はだしの歌にときどき出てくる「子分」口調は、語尾の選択としての「よ」「ね」「です」の延長線上にあるのだろう。これまで「平熱」というキーワードではだしについて理解しようとしてきたけど、「平熱」とは必ずしも覚めているとか、ドライであるということではない。それは掲出歌の「おやびん 今日のことわすれないでやんすよ」から明らかだと思う。熱さをできるだけ熱いまま歌に持ってくる、というのは確かにはだしの扱いたい領域ではないのだろう。それでも心の揺れ動く時間を歌に落とし込もうとするときに、「子分」口調はその揺れ動きを安全に歌に着地させるマットのような役割を果たしている。というか、「子分」口調に限らず、はだしの歌全般に対してこの説明は適用できるかもしれない。語尾による処理も構文による処理も、これまでに見てきたものはほとんど、その力を弱めることで逆説的に、熱さや揺れが一瞬で消えてしまうことのないよう、短歌として少しでも生き永らえられるように、この作者が用意した装置なのかもしれない。

 この歌に関して言えるのはそのくらいである。あとはもう「良い」しかない。この良さを拾う評はできないと思うので――この歌のみならず、はだしさんの歌の良さを拾いきる評はできないと思うので、ここまでにしておきます。

 

 以上、前回の瀬口さんに続き長くなってしまいましたが、はだしさんのよさが伝われば幸いです。今回、このような機会をいただいたおかげでこれまでのはだしさんの歌をさかのぼるためTwitterや『なんたる星』を読み返すことになり、それはとても良い時間でした。ありがとうございました!

 

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ありがとうございました。

更新予定

7月17日(水) 学生短歌会編 神野優菜さん

7月24日(水) ネット歌人編 はだしさん

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