歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第9回 雪吉千春さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第9回は雪吉千春さんをお迎えします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

自己紹介

こんにちは、早稲田短歌会所属の雪吉千春と申します。

2000年生まれで、四列シートの夜行バスでぐっすり寝られるのが強みです。鼻濁音は天然でも習得したものでも好きです。

 

自選5首

踏切の向こうにきみがいる夢の季節のわからなさに縋った

悲しくない声が聞きたいわがままでごめんねネズミ花火を放る

(「ほころび」『早稲田短歌』48号)

のど飴は知らないうちに舐めおわりそういえば縁切ったんだった

自転車を全速力で漕ぎ出せば痛む喉にシャトルランの空気

(「夢、いつまでも夢だった」『懐露』vol.1)

手のひらに傷を作った真冬日の 君がどうして謝るんだよ

(「桜の小指」『歌壇』2018年2月号)



私がご紹介するのは九大短歌会の神野優菜さんです。



雪吉が選ぶ神野優菜の5首



わけがないと会えない人のせわしさの積もるばかりの雪に触れたい

(第5回大学短歌バトル2019 題詠「人」)

怒られると思っていたら抱きしめてもらえたような陽だまりでした

(「雨はぬくもり」『九大短歌』第八号)

ヒヤシンス夏に咲いてよ変わらないねって言われて微笑むように

(「Cough Drops」『九大短歌』第八号)

眠たさとしやべりたさとの境目に金魚の尾びれのやうな相づち

(「零れ桜」『九大短歌』                第九号)
さよならの夕べの雨はあなたから放たれた矢だと思って濡れる

(「矢車菊」『千紫万紅』)

 

わけがないと会えない人のせわしさの積もるばかりの雪に触れたい

 

彼女の歌には「○○さ」という言葉がよく使われる。この歌では「(自分の)さびしさ・切なさ」ではなく「(相手の)せわしさ」を中心に据えたところが良い。一見すると「触れたい」という言い方から二人の関係を一歩進めようと手を伸ばしているように思えるが、「わけがないと会えない」のは相手が忙しいからだと自分に言い聞かせているようにも読める。この雪が実際に目の前にあるのかはわからないが、降り積もる雪に託しているのが自分の一方的な感情ではなく相手の日々の状況であるという、あくまでも相手に寄り添おうとするような優しい視線が窺える。

 

怒られると思っていたら抱きしめてもらえたような陽だまりでした

 

「怒られると思っていたら」という前提に物語を感じた歌。いったい何が起きたのか、具体的なことは最後まで知らされない。ただ一瞬身構えた後に安心感に包まれた感触を読者は追体験する。「陽だまりでした」という静かな終わり方が余韻を残している。

ヒヤシンス夏に咲いてよ変わらないねって言われて微笑むように

 

ヒヤシンスの開花は3~4月。「変わらない」ということは、夏になってもそのまま咲き続けてほしいと言う無茶なお願いをしているのだろう。「変わらない/ねって」という「ね」に強調のアクセントが置かれる句またがりによって、この微笑は同意を求める押しの強さに困って表れたものではないかと感じた。そのような無茶な「そのままでいてほしい」という欲を主体も投げかけられたことがある上で、ヒヤシンスに自分を投影しているのかもしれない。

 

眠たさとしやべりたさとの境目に金魚の尾びれのやうな相づち

 

一緒に部屋にいるのか、電話しているのか、だんだん瞼が重くなり相づちも曖昧になってくる時間をうまく切り取っている。金魚の尾びれがゆらゆらと透明に揺れる様子が、ゆっくりと縦に振る首やふわふわと喉から出る声と重なっていて、比喩の上手い一首。

 

さよならの夕べの雨はあなたから放たれた矢だと思って濡れる

 

あなたと別れた後の情景を詠んだ歌だろう。去り際に「あなた」が残した言葉あるいは感情が、想像上の矢として無数に降り注ぐ中に立ち尽くしている。呆然としているというよりはその雨に含まれたメッセージを静かに噛み締めているようだ。行動だけを取り出すと悲劇のヒロインめいた主体像を想起させるが、自然な語り口が過剰になりがちな情緒をうまく制御している。

 

神野さんの歌はどの季節でもやさしい。自分を押し付けることなく「あなた」を想い、それでいて自己完結しないような語りかけ方が彼女の魅力だと思う。 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

7月10日(水) ネット歌人編 温さん

7月17日(水) 学生短歌会編 神野優菜さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。詳しくはこちら

 

歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第12回 瀬口真司さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。12回目の今回は瀬口真司さんにご寄稿いただきました。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

こんにちは、瀬口真司(せぐち・まさし)と申します。立教大学大学院文学研究科日本文学専攻で主に塚本邦雄の初期歌集について研究している大学院生です。現在所属している結社・学生短歌会等はありませんが、以前は広島大学俳句・短歌研究会(※2018年3月解散)におりました。いまの主な作品発表媒体は眞子和也さん、水野葵以さんと活動中のネットプリント「ウゾームゾーム」です。「ウゾームゾーム」は近日中に「vol.3」を配信予定です。お近くのコンビニでよろしくお願いします。

 

自選5首

そのときはサーカスみたいに見えたのに近づいたらおれでした、すみません。

短歌道場in古今伝授の里(2017年12月)

詩ではなく詩人の作るものであり、ときに炒飯みたいにうまい

ガムを燃やして遊ぶみたいな夕方がある二十代 きらり風騒

以上二首、「きらり風騒」(「ウゾームゾームvol.1」、2019年1月)

恥ずかしいことが明るい大人なのにピースがさっき覚えたみたい

一同は起立したあと門を出て、用事があれば行く永田町

「パチ」(「ウゾームゾームvol.2」、2019年3月)

 

今回私がご紹介するのは温(あたむ)さんです。温さんは「かばん」に所属している歌人で、主な活動媒体も「かばん」であり今回の趣旨にまっすぐあてはまらないかもしれませんが、①インターネット(Twitter)で公開された、②まとまった、③面白い作品を発表している歌人としてご紹介することにいたします。

 

瀬口が選ぶ温さんの5首

 

じゃあまたね、グミ 眠れればとても耳あなたのようなあなたの体重

富山にはジンジャーハイがないと言うそして金魚はとても多いと

うぶな馬 間違っているチョコレート 好きとはどうしようもない星

「居酒屋から」(50首、温さんのTwitterより、2019年2月3日)

地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯なんかしましたかこんなの見せられて

そういえば昨夜あなたは蟻の列みたいな涙を そういえばじゃねえな

「咽るほど献花」(30首、『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)

                                                                                                               

(以下、敬称略。)

 

じゃあまたね、グミ 眠れればとても耳あなたのようなあなたの体重

 

温の歌にはしばしば指示対象を持たない比喩が用いられていると思う。たとえばこの「耳」。文中のポジションでいえばこの「耳」の位置には程度のあるもの、この場合〈うれしい〉とか〈楽しい〉といった形容が来るべきだろう。それを踏まえて、何らかの形容と置換可能な意味を担った隠喩としてこの「耳」を受け取りたい。だが、ここでは眠ることができるということは「耳」である。「とても耳」……。おそらくこの「耳」はさっき「じゃあまたね」と別れた「グミ」の響きが連れてきたものだろう。韻だとすれば〈海〉とか〈罪〉とか〈ムーミン〉とか言っておけばそこに在るはずのなにかの比喩としてなんとなく成立してしまいそうなものを、そうした味の濃い言葉が余計な意味を帯びて何かを示してしまうことを拒むように意味のうすい「耳」が連れて来られているのはどういうことか。

下句「あなたのようなあなたの体重」では、トートロジーめいた直喩で「あなたの体重」が「あなたのよう」だと述べられるが、はっきり直喩の体をとりながらエラー寸前の文が組み立てられている。変動するものである「体重」について、現在の「あなた」の「体重」は、いかにも「あなた」にしっくりきていますよ、と言っているのではなさそうな雰囲気が直前の「耳」によって(さらに「グミ」に呼びかけるヘンな導入によって)もたらされている。

比喩や韻を用いるときは、意味の遠いもの同士や実際にはそうではないもの同士を結びつけるのがセオリーだろう。しかし、ここではそうした技巧の詩的価値を俯瞰し、意味上の遠さではなく構文上の選択不可能性という別の遠さを使っているようだ。セオリーを疑っている、というとクリティカルな感じもするが、ちょっとバグ技っぽいぞ!とも思う。

単にセオリーへの逆張りであればもっと嫌な感じがするだろうが、そうでもないのは「あなた」、「あなたの体重」を、比喩で別のイメージに変換してしまわないことで「あなた」の丸ごとの肯定をしようとしているからであり、それが結果的に脱力感のあるフレーズになっているからだろう。「耳」に象徴的な意味が付与されないのは「あなた」にとっても読者にとっても助かることかもしれない。

 

富山にはジンジャーハイがないと言うそして金魚はとても多いと

 

そんなことがあるかよと思う。

「居酒屋から」50首には、「富山」に所縁があると思われる「あなた」の(「富山」にまつわる?)でたらめが(というか、「あなた」の言葉を観察し、ふざけっぽいものとしてこちらに伝えてこようとする語りの態度が)存在する。≪溶けかけのトマトアイスのような また富山に無い物で喩えてる≫≪口からはまるで万国旗のように絶えずわかめが出てくるあなた≫

 自分の知り合いの富山有識者に真偽を確認するのもはばかられる情報だが、掲出歌には「あなた」の自虐を経由した〈レペゼン〉の感覚を読み取りたい。この手の与太を飛ばすひとはいるものだ。ただし、こちらが安心して茶化しに加担できるのは与太ゆえにではない。

≪駅員が居酒屋まで聞こえる声でまた劇したいみんなと、と言う≫≪店員が駅に聞こえるあの声でコンビニ行くけどどうする、と言う≫

掲出歌の前後には何かを「言う」他の人物たちも登場するが、それを面白がる語りの態度は異なると思う。「駅員」や「店員」の妙でイレギュラーな発話を伝えてくるときには、ややある距離が保たれたままだが、掲出歌の語順は発話の生っぽさが低く、語り手によるおもしろ加工が施されている。

この歌のホラっぽさは「ジンジャーハイ」がなくて「金魚」がとても多いという2つの情報のいびつなバランスや、それが繰り出されるテンポのよさとともに、「智恵子は東京に空が無いといふ」(高村光太郎「あどけない話」『智恵子抄』)をものすごく俗にずらしたような上句の調子に起因している。というか、それが核だろう。この大ネタ使いによってふざけの真顔感の増強が行われている。このギャップを経て、想定される〈ここにある情報を最初に提示したひとの発話〉そのものよりこの歌はおもしろくなっているはずだ。この歌は連作中珍しく、ギャグですという表情の見せ方がうまいのだ。(そもそもこの連作は冒頭一首目の初句が「テッテレ~(笑)」で、基本の表情やテンションが非常につかみづらい)

 

 

うぶな馬 間違っているチョコレート 好きとはどうしようもない星

 

一字空けを用いて、相互に結び付けられないまま3つのものが提示される。「うぶな馬」、「間違っているチョコレート」、「どうしようもない星」。まず提示されたひとつひとつのものにときめく。これらはそれぞれが珍しく、甘やかで、一首通して古着屋が小皿に盛って売っている旧共産圏のピンバッジみたいなかわいさがある。

「うぶな馬」には、そんなもんいねーだろとつっこまされた直後にう~んいや、いるのか……?と思わされるし、「間違っているチョコレート」には、場合によってはね、と思ってしまう。妙な親しみを覚えている。現実にあるのだかないのだかわらからない、ともすると一生用事のないようなイメージたちだが、この<ちょっとヘン>具合は心地よい。

この2つの後に述べられる「好きとはどうしようもない星」に対しては、このひと自身がそのフレーズに納得している感じが強いためこちらからは、そうですか、と言うことしかできないが、個人的な好意を「どうしようもない」ものとして言っているのではなく、普遍的に「好き」なる感情は「どうしようもない星」であると言い切っている点には共感していける可能性がある。この「好き」も「うぶな馬」や「間違っているチョコレート」と同じ世界のものだ。「好きとは」という接続の仕方は<ちょっとヘン>である。

 

地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯なんかしましたかこんなの見せられて

 

ここから2首は「咽るほど献花」(30首、『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)から引いてみたい。「咽るほど献花」は緊密に編まれた文脈やギミックのある連作だがここでは歌人の紹介を優先して歌を引くことにする。

服部真里子が「そもそも歌のメンタルが(笑)を含んでいる」、「自分を、ときには世界そのものを、常に外側からとらえる視点を失わない。これが私の言う「(笑)」だ。」(「幼さと多幸感と「(笑)」」同号)と評したように温の歌にはメタな視点がある。それは1首目でみたように(作者のレベルで)短歌のセオリーに対して向けられることもあれば、この歌のように歌の中の主体の態度としてあらわれるものでもある。「こんなの」を見せられている姿は不憫というか、まあ気の毒だが、すぐさまその状況自体を笑いこなす「なんかしましたか」が言えていることで「地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯」という謎の突飛な状況がこちらにも面白いものとして伝わってくる。他にも連作や歌の中でヘンすぎることはいくつも起っているが、「(笑)」のメンタルやメタなユーモアは、こちらがついていけないくらいヘンすぎる状況を笑えるものとして提示してくれる親切さに見えることがある。

 

そういえば昨夜あなたは蟻の列みたいな涙を そういえばじゃねえな

 

みてきたように、ユーモアのフィルターをとおしてさまざまな「(笑)」やメタやずらしや批評を仕掛ける作者だが、そういえば「あなた」が歌によく登場してくることが気になる。<あなた>、を詠み込めば相聞歌として読まれやすいだろうと素朴に思うが、そういう磁場や<あなた>自体とはどのように向き合っているのだろうか。

 一首目では「あなた」は「あなた」以外のものにたとえられていなかったが、ここでは「あなた」の「涙」が「蟻の列」にたとえられる。筋状に流れる「涙」ではなく、こぼれる粒のひとつひとつが「蟻」の一匹一匹になって顔を這っているようなイメージだろうか。グロテスクでちょっとこわくて面白い比喩だ。しかし、せっかくの比喩は宙吊りにされる。「そういえば」と言い出したくせに「そういえばじゃねえな」という頭からの否定がやってくる。≪そういえばいつもの癖で米二合炊いてたわ そういえばじゃねえわ≫という歌もある。一人相撲的な身のこなしの早さに笑ってしまう。

やはり前提に対する批評が「そういえばじゃねえわ」、「そういえばじゃねえな」というすばやい思い直しによってあらわされている。結果的にここで「あなた」は「あなた」自身の姿を晒さない存在のままである。温の歌についてそれがどのような意味を持つか、今後の活動を注視しながら考えていきたいところである。

 

 

以上、かなり長くなってしまいましたが、評を通して温さんの歌の面白さや批評性をお伝えできていたらうれしいです。私自身、温さんのおもしろがっていることや、そのおもしろがりかたにシンパシーを感じていたり興味があったりしています。温さんは歌会の評や評論でもオリジナルの切り口をもっている歌人なので、ぜひみなさんにも注目していただきたいです。ありがとうございました。

 

瀬口真司

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

7月3日(水) 学生短歌会編 雪吉千春さん

7月10日(水) ネット歌人編 温さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。Amazonギフトカードによる投げ銭についてはこちらPayPalによる投げ銭は https://www.paypal.me/sanbashi まで。

 

歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第8回 草間凡平さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第8回は草間凡平さんをお迎えします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

どうもこんにちは。立命館大学短歌会4回生の草間凡平です。インターネットでこんな事書くのはどう考えてもまずいんですが、本名です。

1997年生まれの北海道出身、高校2年生の頃に短歌をはじめました。最近は就活にかこつけて、かき氷やらパンケーキやらパフェやらの甘味をひとりで摂取しています。かなしいですね。

Twitter : @heibomobieh

 

自選5首

イマジナリーガールフレンドはるのゆき 雪が降ってる時点で冬じゃん

ネットプリント毎月歌壇2017年7月号

 

スワンボートめっちゃいいじゃん諸々のあをにも染まず君とただよう

歌会たかまがはら 2017年12月号

 

たてがみのような寝ぐせをたなびかせチャイナマフィアに紹興酒チョップ

平成28年度 短歌道場in 古今伝授の里

 

白身魚くずれやすくてわたくしは電信柱に寄りかかりがち

リフレインのなかにrainの息づかい文明すべてがみずうみになる

「pluvo tago」『立命短歌 第五号』

 

今回僕がご紹介させていただくのは、早稲田大学短歌会の雪吉千春さんです。

 

草間が選ぶ雪吉千春さんの5首

髙【はしごだか】だったんだねと呟けば「そう」と日誌の文字は寂しげ

 (編集注:【はしごだか】はルビです)

桜だと思ってくれて構わない君の背中に小指を当てる

「桜の小指」『歌壇』2018年2月号

 

のど飴は知らないうちに舐めおわりそういえば縁切ったんだった

「夢、いつまでも夢だった」文芸同人誌『懐露』vol.1

 

散骨を話すふたりが夢みたいジャスミンティーがまずくて素敵

引用符ポーズかわいい夏の果てきみだけの〝死〟がそこに生まれて

「ほころび」『早稲田短歌』48号

 

ほんとうに琴線に触れる歌が多くて、5首選ぶ際に福本伸行作品みたいな脂汗が出ました。

 

髙【はしごだか】だったんだねと呟けば「そう」と日誌の文字は寂しげ

 

一首目。とても静かな歌ですよね。卒業か、転校か、あるいは亡くなったのか、おそらくもう二度と会うことはないだろうクラスメイトが書いた学級日誌をふとしたタイミングで読み返した際の歌なのかな、と思いました。主体からすれば、そしてきっと大多数のクラスメイトからすれば「はしごだかの子」はクラスメイトの一員でしかなかった感じがしますが、「はしごだかの子」からすれば後悔の残る、また違った関係もありえたかもしれない学校生活だったことが末尾の「寂しげ」から伝わってきます。

この歌の静まり返った教室を思い起こさせる感じは、韻律からのイメージもあるのだろう、と読んでいて気づきました。初句の「髙はしごだか」の「か」のk音の、句の切れ目以上のばちっとした切れ、二句目の「だったんだね」の口を大きく使うゆっくりした感じから、下句の入りの「そう」の不安定な感じ、そしてスッと通り過ぎていく。主体の不意な感情のざわめきと、日誌の文字たちの諦念が、文面はもちろん、韻律の面からも伝わってきてうまいなあ、と思いました。

 

桜だと思ってくれて構わない君の背中に小指を当てる

 

二首目。いい歌ですよねえ。僕なんかが評をするのが野暮なんじゃないかとも思うのですが、少しだけ。

雪吉さんの歌を読んでいて思ったのは、大衆的価値観から見た「正解」から少し逸れてしまったモノや人に対する愛を感じる、ということです。その「逸れ」は主体にも作用していて、自虐的な一面を見せながらも、どこかその弱さを誇りとしてもっている、そんな歌がけっこう見られたような気がしました。

この歌も、絶対に気づかれた方がいいにきまっているのに、気恥ずかしさや自信のなさから「桜だと思ってくれて構わない」と主体は謙遜しています。が、この謙遜の具合が丁度いいために、健気な祈りとなって、主体から見た「桜の道と、君と私しか存在しない空間」に読者もいつの間にか引きずり込まれている、というふうに感じました。

 

のど飴は知らないうちに舐めおわりそういえば縁切ったんだった

 

三首目。味覚と思考のリンクが素晴らしい作品。舐めはじめはぬらっとした存在感のあるのど飴が、いつの間にか後味だけを口内に残して消えている。その時間的飛躍と、のど飴の終わりから人間関係の終わりの話題に内容が飛躍する感じ、のど飴の清涼感と主体のドライさが完全に響きあって、上下でぐるっと話題が転換するにも関わらず、他の何ものでも代用できなかっただろうな、という軸の強さがあります。

下句、強いですねぇ。誰との話なのか、どうなってそうなったのか、すべては主体(とその相手)しか知らず、読者に伝わるのは、主体がそのことについて、舌の上ののど飴の後味ほどにしか感情を割り振っていないということだけ。「縁切った」の撥音+助詞抜きのスピード感、「切ったんだった」の全自動で事が流れていくようなリズムなど、韻律も面白いです。

 

散骨を話すふたりが夢みたいジャスミンティーがまずくて素敵

 

四首目。「わかる。」これも「わかる。」なんですよ。このへんの言葉選びであったり、場面選びであったりというのは完全に雪吉さんの嗅覚ですね。尋常じゃないリアリティがあります。自分のことかとすら思った。

若さゆえに「死」すらも無邪気に話せてしまう、「エモ」にできてしまうふたりのまぶしさに、くらくらと眩暈のような白昼夢のような、デジャヴのような感覚をおぼえ、思わずジャスミンティーを手に取ったらまずくて「現実」としてそこにあった、という歌というふうに読みました。

「散骨の話をするふたり」というモチーフや、ジャスミンティーに対する「まずくて素敵」はさっきの「逸れ」への愛に似たものを感じます。特に「まずくて素敵」はダブルミーニングだと思うんですよね。まずいということで現実に引き戻されたことを皮肉ってる感じと、「まずい」ということがアイデンティティとなってそこに確かに存在していること、なんなら後に振り返ったときに「ジャスミンティーがまずかった」という思い出の方が勝るかもしれないということに対する純粋な尊敬の念と。好きな歌です。

 

引用符ポーズかわいい夏の果てきみだけの〝死〟がそこに生まれて

 

最後、五首目です。僕はこれを最初、合宿の詠草一覧で見たんですが、「うわっ」って声に出しちゃいました。完全にエネルギーを発してましたね。今回、雪吉さんに声をかけさせていただいたのもこの歌がきっかけです。

いや、若え~~~! 若さのエネルギーがビカビカに光ってますよ。よく高校生とかに「高校生らしい若い作品が読みたい」とか言ってやれ夏だ、やれ恋だ、って歌を持ち上げるおじさんがいたりいなかったりしますが、この歌はそれら以上に今しか詠めない、エネルギーを持った歌だと思わされます。ほんとうに馬鹿にしてるとかでは(当然ですが)なくて、「若さとは」というものの描写としてのポップさとほの暗さのバランス、そしてやはりエネルギーを強く感じるいい歌だと思います。

まずもって「引用符ポーズ」です。ダブルピースして両の人差し指と中指をくいっくいっと曲げる動作、なんならちょっと猫背、みたいな動作を僕は想像したんですが、何がすごいって「引用符ポーズ」もとい「エアクオート」を知らない人でも、おそらくこれに近い動作には行きつくと思うんですよね。僕は割と歌の景がぱっと浮かべられる歌が好きなので、もうこの時点でだいぶやられていました。

で、このまぬけでかわいい引用符ポーズを「君」がしているわけですが、それをしているのは夏の果て、夏の終わり間際であると。夏の終わりとはすなわち、無邪気でいられる、「若い時期」の終焉の比喩として僕は読みました。先ほどの「散骨」は肉体としての死の話で、こちらの「死」もとい〝死〟は精神としての死。なので「散骨の話」よりも切羽詰まっていて、「君」のする引用符ポーズの手と手の間の空間にまで迫ってきている。そして「君」がその人生の夏の終わりを自覚し始めた、という歌なのかな、というふうに読んでいました。

「引用符ポーズ」や〝死〟といった、印象的なモチーフでしっかりとその存在感を放ちつつもしっかりと、若さゆえに、その若さの『死』に対して敏感にならざるをえない残酷さを切り取った、いい歌だと思います。

 

……とまあ、こんな感じで、雪吉千春さんの5首を紹介させていただきました。僕にもっともっと文章力や評の力があれば、と力不足をビシバシ感じているのですが、雪吉さんの魅力が少しでも伝わってくれていれば幸いです。

ありがとうございました。

 

草間凡平

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

6月26日(水) ネット歌人編 瀬口真司さん

7月3日(水) 学生短歌会編 雪吉千春さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。詳しくはこちら

 

歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第7回 長谷川麟さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第7回は長谷川麟さんをお迎えします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

こんにちは、岡山大学短歌会、塔短歌会、ura所属の長谷川麟です。

1995年生まれの岡山生まれ岡山育ちです。歌歴は今年で3年目です。

工学部で安全に関する心理について勉強しています。

夏までに痩せて、最後の夏休みをエンジョイしたいです。

 

 

自選5首

 

行きしなは特には思わなかったけど遠くにあってよかったね うみ

(「to remain」 岡大短歌6)

 

長生きをする生き物と検索し、一番安いやつを飼いたい

(「しかくいひかり」2017年 大森静佳さんのワークショップ『メランジェ』より)

 

アルティメット大好き級の恋だからグラップラー刃牙全巻売った

(「オーバーフェンス」 岡大短歌6)

 

りっちゃんがまた髪色をあざやかにしていた雪の降る月曜日

(塔 2019年3月号)

 

花冷えの意味は知らんし、私たちするどく光っていたね あの頃

(~飛騨・神岡短歌コンクール~ 女神へ贈るラブレター)

 

 

 

 

僕が今回紹介するのは、立命館大学短歌会の草間凡平くんです。

 

長谷川が選ぶ草間凡平くんの5首

 

 

晴れた日にレンゲの蜜を吸いながら安易に好きとか言っておくれよ

(「新しい本棚」 立命短歌 第4号)

 

結局は誰も好きではないのだろうゆめの湖畔にサルビアの群れ

 

かすみ草 滅びるならばそうならばどうしてそんなにきれいな鎖骨

(「バードストライク」 立命短歌 第6号)

 

しこうていし、って言葉のにあう全休の金曜きみとふたりでねむる

(~飛騨・神岡短歌コンクール~ 女神へ贈るラブレター)

 

リフレインのなかにrainの息づかい文明すべてがみずうみになる

(「pluvo tago」 立命短歌 第5号)

 

 

 

 

晴れた日にレンゲの蜜を吸いながら安易に好きとか言っておくれよ

 

 

「好き」なんて言葉自体、僕自身、何年聞いていないか分かんないんですけど、やっぱり意中の人から好きという言葉を聞けることって、とても幸せなことですよね。

 

この歌における「好き」という言葉は、はたして自分に向けられた言葉なのか、それともレンゲの蜜に向けられた言葉なのか、ここがいまいちはっきりとしません。さらに、ここで重要なポイントとしておさえておきたいのが、この「好き」は主体が、意中の相手に対して晴れた日に安易に言ってほしいという願望であるという点です。

 

つまりはこれ、ちょっとした妄想なんですよね。(笑)

 

仮に妄想の世界なんだったら、はっきり自分に向けて「好き」って言ってるような場面を想定すればいいし、「好きとか」じゃなくて、「好き」っていってもらえばいいのにと思ってしまうんですけど、ここに主体のキャラクターの良さが出ていると僕は思っています。

 

細かい場面の設定をしておきながらも、あくまで自分の身の丈を越えるような妄想じゃない。しかも、「晴れの日にレンゲの蜜を吸う」という詩的な景への飛ばし具合。このバランス感覚がとても優れていて、へなちょこな主体なんだけど憎めなくて、短歌としての精度も非常に高いと感じます。

 

 

結局は誰も好きではないのだろうゆめの湖畔にサルビアの群れ

 

 

自分に自信が持てない主体。ここでもそんなへなちょこな主体が顔を出します。また詩的な景への飛躍はこの歌にも見られるポイントです。

 

「結局は誰も好きではない」と考えるのは、誰かのことを好きかもしれないという認識があるからであって、主体は他人に興味を持っていない人間ではないように感じます。自身の感情を恋愛感情と認知することは、ある意味、傷付くリスクを負うことでもあるわけで、はじめっから誰のことも好きではないだろうと決めてしまえば傷付くことはないわけです。でも、これって男として若干情けないような気がします。(笑)

 

そんなへなちょこなことを言いながらも、下の句にかけて「ゆめの湖畔にサルビアの群れ」と詩的な景を持ってくることで、上手く上の句のへなちょこ具合を相殺している秀逸な一首だと感じました。もし、この歌の上の句と下の句の間に一字空けがあったなら、

 

結局は誰も好きではないのだろう ゆめの湖畔にサルビアの群れ

 

上の句の主張が強くなりすぎてバランスが取れない一首になってしまう。ここを詰めている点もへなちょこをへなちょこと思わせない、自然な流れで詩的な世界に読者を運んでいく上手さがあると感じます。

 

 

しこうていし、って言葉のにあう全休の金曜きみとふたりでねむる

 

 

凡平くんの歌には相聞歌が多く見られる割に、肉体感覚に深く踏み込んだ作品が少ないのも、特徴のひとつと言えるのかな。だからこそ、歌が重たくなくてすっと入っていきやすい。なんて言うんだろう、もう評でもなんでもないんだけど、言葉が無理をしてなくて、すごく好きな歌が多いです。

 

しこうていし、って言葉の似合う人のことをなんとなく想像することができるし、僕自信もそういう人が好きなんだと思う。そういう恋人とねむる金曜日。ただゆったりとしたいためだけに作る全休の金曜日、、、良い。

 

抽象化のレベルが読者を置いてけぼりにしていなくて、上述のへなちょこ感と詩的な雰囲気のマッチングの話と少し繋がってくる部分ではあると思うんですが、分からなさと分かりやすさのバランス感覚がいいんだと思う。

 

この「全休の金曜」というのは、主体がそうなのか、きみがそうなのか、ふたりともなのか、はっきりはしないけれど、個人的には片方だけであってほしい。そっちのほうが「しこうていし、」感つよくてより魅力的だと思う。

 

 

リフレインのなかにrainの息づかい文明すべてがみずうみになる

 

 

この歌もリフレインという言葉のなかにrainという響きがあるという発見を、下の句の詩的な世界観へと自然に運んでゆく構成になっている。「息づかい」というフレーズもとても魅力的でこの一首を見事に支えている。

 

学生歌人といういうものが、今までどのように取り上げられてきたのか知らないけれど、大学短歌会に所属している歌人を取り上げる以上、短歌会についても少なからず触れておく必要があると思う。

 

立短がどのように活動しているのか、ほとんど知らないけれど、岡短と比較して日常詠とか家族詠とか、やや少ないように感じた。その反面、詩としての完成度が高く、自分たちの生活の外側に思いを馳せた歌が多く見られる印象だった。夜、水、宇宙、時には時空を超えたモチーフや、また兵器や死などのモチーフを好んで詠んでいるように感じる。どこかダークな雰囲気があって、扱いの難しい単語を上手く一首のなかに取り入れている歌が目立つように感じました。

 

歌の話に戻るがこの歌は、そういった環境で日々短歌に取り組んでいるからこそ、生まれる一首であるような気がする。少なくとも、自分の周りでこういう詩的な歌の展開を見ることは滅多にない。今回、この企画に取り組む中で、凡平くんの高校の頃の作品も読ませてもらったけれど、やはり大学短歌会での影響が凡平くんの作品に少なからず影響をもたらしているんだろうと感じた。また機会があれば立短の歌会にも参加して、いろいろ勉強させてもらいたい。反対にぜひ岡山にも遊びにきてもらえたらといいなと思う!

 

 

 

長々と書いてしまいましたが、お粗末な内容を失礼しました。

凡平くんの今後の活動を、陰ながら今後も応援しています。

 

最後に、今回の企画を通してもっと他大学の機関紙をしっかり読まねば!という気持ちと共に、もっと学生歌会間の交流も盛んにできたらいいなと思いました。

 

学生歌会同士が今後さらにつながりを増して、切磋琢磨し合えるような環境が増えてゆくことを願っています。もし岡山まで来てくださる方がいらっしゃいましたら、岡山大学短歌会としては大歓迎ですので、ぜひとも遊びにきてください!よろしくお願いします!

 

長谷川麟

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

6月19日(水) 学生短歌会編 草間凡平さん

6月26日(水) ネット歌人編 瀬口真司さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。詳しくはこちら

 

『先発全員短歌』一首評

3回のアウトに学ぶおしまいはワルツのように軽やかな幕

/キクハラショウゴ『先発全員短歌』

 

 野球をモチーフにした歌集のあとがきの後に載せられた、「おまけ」という位置づけの歌であるようだ。

 言葉の意味としては、野球におけるスリーアウトの三という数をワルツのリズムに重ね、そこに幕引きのイメージを重ねていると読める。ただ、この「学ぶ」がなかなかおもしろい。

まなぶ【学ぶ】①まねてする。ならって行う。

広辞苑 第六版』より

とあり、この意味で使われているようだ。この場合なにを行うかと言うと、この歌が置かれている位置から考えて、この歌集を幕引きすることである。ここの自己言及性がおもしろい。

 さらにおもしろいのは、それをワルツにも重ねている点である。三という数をワルツに重ねる発想として思い浮かぶのは、海堂尊の『ジーン・ワルツ』より「生命の世界では誰の遺伝子もみんなワルツを踊っているのだから。」というセリフだ。これは遺伝子の塩基対が3つでひとつのアミノ酸を指定することから来ているのだが、これと掲出歌を比較したとき、歌の方が快活なワルツであるような気がする(快活なワルツというものがあるのか詳しくないので分からないのだが)。「生命」「遺伝子」という神秘性を備えた言葉と並べられるとき、ワルツは祈りの舞踊のような空気を帯びる。それに対して、この歌では例えられているのがスリーアウトである。野球場の空気感は賑やかなものであり、試合終了ともなればそのざわめきは大きいものだろう。そのイメージを「軽やか」という言葉が補強して、よりワルツにイメージを帯びさせることに成功している。

 

評:鈴木えて

歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第11回 笹川諒さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。11回目の今回は笹川諒さんにご寄稿いただきました。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

自己紹介

こんにちは、笹川諒です。短歌人会所属、ネットプリント『MITASASA』を発行しています。『MITASASA』は、僕と三田三郎さん(歌集『もうちょっと生きる』)がだいたい月に一回のペースで発行しているネプリで、毎回ゲストの方もお招きしながら、楽しく活動しています。配信時にはTwitterやブログでお知らせしますので、お読みいただけますと幸いです!

 

Twitterアカウント:https://twitter.com/ryosasa_river

ブログ:http://ryo-sasa.hatenablog.com/

 

自選5首

たとえば夜が生徒のように慎ましく麦茶を飲んでいる いや僕が

(「手に花を持てば喝采」『ネプリ・トライアングル(シーズン3)』第1回)

天国に自転車はあると言い張っていたらわずかに夜のサイレン

(「天馬、あるいは」『MITASASA』第1号)

知恵の輪を解いているその指先に生まれては消えてゆく即興詩

(「青いコップ」『MITASASA』第2号)

誰かを枯らす 自ら進んで枯れてゆく そうしないよう二回祈った

(「半分はせかいの涙」『MITASASA』第3号)

物語はいつも大きく目に見えず喪服といえば喪服の少女

(「曼荼羅の詩」『MITASASA』第5号)

 

僕がご紹介するのは、ネットプリント『ウゾームゾーム』で活動されている、瀬口真司さんです。自分がネプリを作り始めてから、他の人のネプリもよく読むようになったのですが、その中でこの人の短歌すごいな……と思った中の一人が瀬口さんです。上手く言えませんが、爽やかさの中に、過ぎてゆく一瞬一瞬をもう既に懐かしんでいるような独自の視点が垣間見える、素敵な作品を書かれています。

 

笹川が選ぶ瀬口真司さんの5首

ライムミントいまは涼しくなればいい君は君から生まれていない

関係は続く(※千円借りている)いつも眩しい他人の尿意

ガムを燃やして遊ぶみたいな夕方がある二十代 きらり風騒

(以上、「きらり風騒」『ウゾームゾーム』vol.1より)

恥ずかしいことが明るい大人なのにピースがさっき覚えたみたい

ソー・ヤング ふざけずに話したことのあるようなないようなジョイフル

(以上、「パチ」『ウゾームゾーム』vol.2より)

 

ライムミントいまは涼しくなればいい君は君から生まれていない

 

「君は君から生まれていない」は、深いことを言っているようでありながら、あまりに当然のことすぎて、むしろ口から出まかせを言っているように思える。そのノリはとりあえず今すぐ涼しくさえなれば……というヤケクソな感じから生じたもので、さらに、求めている涼しさの象徴でありながらも、どこかフェイク感のあるライムミントとも結びついている、という面白い構造になっている。初句「ライムミント」が印象的。

 

関係は続く(※千円借りている)いつも眩しい他人の尿意

 

主体とここで登場する「他人」(おそらく友人だろう)は、千円を借りているという具体的な事実によってしか、二人の関係性を客観的に証明できる術はない。けれども、ここでの主体と「他人」は、実際のところはかなり親しい友人関係にあるような気がする。「いつも眩しい他人の尿意」はたぶん、一緒に遊んだり飲んだりしている時に、「ちょっとトイレ……」とその友人が切り出す時の言い方とかクセとかを主体は知っていて、その時の感じから二人の間の信頼関係とか仲の良さみたいなものが、主体にはぼんやりと読み取れる。だから、主体にとっては、「いつも眩しい他人の尿意」なのだ。

 

ガムを燃やして遊ぶみたいな夕方がある二十代 きらり風騒

 

僕はガムを燃やして遊んだという経験はないけれど、小学生の子どもとかがやりそうな遊びで、ノスタルジーを感じる。そんな気分の二十代の夕方に、「きらり風騒」。「風騒」の意味を調べると、「詩文を作ること。また、詩文を味わい楽しむこと。」だそうだ。とはいえ、「風騒」の辞書的な意味はここではそれほど重要ではないような気がする。「きらり風騒」は、朝ドラのタイトルなんかを彷彿とさせる、短歌ではなかなか使うのが難しい、いかにも感のあるフレーズだ。作者はそれを逆手にとって、このフレーズが読み手に与える印象を効果的に利用しているのではないだろうか。他の人から見たらちょっとダサかったり幼く見えるかもしれないけれど、当人(たち)にとっては昔ガムを燃やして遊んだ時のようなワクワクする夕方を、主体は謳歌しているに違いない。

 

恥ずかしいことが明るい大人なのにピースがさっき覚えたみたい

 

「ピースがさっき覚えたみたい」のエモさに、心をわしづかみにされる。この歌と割と近い時期に同じくネプリで読んだ歌に、<LiveDAMかJOYSOUNDかを選ぶときこっちを見るからもうって思う>(石井大成「See off」『空箱』vol.2より)という歌があって、この「こっちを見るからもうって思う」とセットで、「ピースがさっき覚えたみたい」が強く印象に残ったのを覚えている。この二つのフレーズは意味も発想ももちろん異なるけれど、きわめて会話体に近い口語を用いて新鮮でインパクトのあるポエジーを立ち上げていくという、手法的な部分では共通しているように思う。一首の評という観点からは離れてしまったが、この二首のような印象に残る歌を最近のネプリでは色々と読むことができ、ネプリという媒体からますます目が離せなくなっているような気がする。

 

ソー・ヤング ふざけずに話したことのあるようなないようなジョイフル

 

主体にとって、青春時代(高校生くらい?)の思い出の象徴としてのジョイフル。友人たちとドリンクバーを頼んだりして、長々とふざけ合っていたことを思い出している。いつもふざけてばかりだったけれど、そういえば真剣な話もしたような気もして、でも、何の話をしたかは思い出せない。ひょっとしたら、自分じゃなくて、他の友達から「ジョイフルで真剣な話をした」という話を聞いただけだったかもしれない……。誰にでもある「ソー・ヤング」な時代に特有の、仲間うちの連帯感が伝わってくる。色々と読み手の想像を膨らませる、「あるようなないような」がすごく良い。

 

以上です。評を書きながら、好きな短歌のどこがどう良いのかを上手く説明するのは難しいなと、改めて思いました……。ではでは、瀬口真司さんの他の作品もぜひ読んでみて下さい!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

6月5日(水) 学生短歌会編 長谷川麟さん

6月26日(水) ネット歌人編 瀬口真司さん

ネット歌人編は4週後になります。

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。Amazonギフトカードによる投げ銭についてはこちらPayPalによる投げ銭は https://www.paypal.me/sanbashi まで。

 

『geko』一首評

海だっていえば海にも見えるけど私のために設えた墓

/山川創「錯視の日」

 

 一読して非常に惹かれた歌だが、その理由をすぐに言語化するのが難しい歌でもある。

 そのままの景を描くなら、いわゆる墓石があり(連作中に「ビル」が出てくるためおそらく舞台は現在であり、現在であるなら法規上土饅頭ではなさそうである)、それが海にも見えてしまう。

 墓を自分のために設える。この場合「設えられた」となっていないので、自分で(あるいは自分を含む集団で)設えたのであろう。そこには強い死の予感がある。最近は生前葬もあり、生きているうちに墓を買うこともあるだろうが、この歌の死の予感はもう少し切迫したものであるように思われる。というのも、同じ連作中に〈希死念慮 息を止めても音のない車で運ばれてしまうだけ〉という歌があり、人生の終盤で穏やかに死の準備をするというよりはもがきの中で死に憧れるような態度だと予想できる。これを踏まえると、「設える」はよく選ばれた動詞であるように思われる。

しつらえる【設える】:きちんと、また美しく設けととのえる。(『広辞苑 第六版』より)

「設える」には「準備する」以上に整えるというニュアンスがあり、そこには美的感覚が伺える。そこに死を美化するような意識が読み取れる。

 そして、その死への憧れの象徴としての「墓」が海にも見えるという。海の広がりを持った爽やかなイメージから、墓という物体に収束する視点の移動がおもしろい。そしてそれと並行して、明るいイメージから死のイメージに変化し、それが翻って海というものの中の死のイメージを喚起する。墓と海の距離感がとてもちょうどいいと思うのだ。墓は日に照らされるとまぶしく光を反射して、海のようだと言われれば少し共感できるところがある。

 読めば読むほど、それぞれの語彙がよく練って選ばれていると感じる一首である。

 

評:鈴木えて