歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第12回 乾遥香さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編第12回です。いつもご覧いただきありがとうございます。今回は乾遥香さんをお迎えします。

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こんにちは。乾 遥香(いぬい・はるか)です。所属は、武田穂佳さんと初谷むいさんとやっている獏短歌会と、1996年生まれの短歌同人誌「ぬばたま」です。そのほか、早稲田短歌会や北赤羽歌会によくいます。歌会でお会いしましょう。

作品がまとめて読めるのは「ぬばたま」で、第四号は11月24日(日)の文学フリマ東京で頒布予定です。既刊の通販も受け付けているので、ぬばたまのツイッター( @nubatama_96 )から、よろしくお願いします。

また、文フリの前日には山階基さんの『風にあたる』批評会でパネリストをつとめさせていただきます。こちらもご興味のある方はぜひ、ご参加ください。

今年も短歌をがんばっていく年にするつもりなので、わたしの活躍を見守っていただければな、と思います。

 

 

自選五首

 

さくらんぼ絵に描くときはふたつずつ それでふつう、になるまでの距離

「何階で降りるの?」(「バッテラ14号」2018.1)

 

口紅を塗りあうことの面映ゆく春から秋までは同い年

(大学短歌バトル2019 決勝戦「春」2019.3.2)

 

めずらしくきみがマフラー巻いていて今日が寒い日だってわかった

「ちはやぶるきみがいるから」(「ぬばたま」創刊号2017.5.7)

 

脱いだ服をかるくたたんでくれているこれは生活とはちがうのに

「水やりと傘」(「ぬばたま」第二号2017.11.23)

 

微笑みつつ話せば過ぎたことになる怒りすべてについてくる月

「Iris」(「ぬばたま」第三号2018.11.25)

 

 

 

わたしが紹介するのは、濱田友郎(はまだ・ともろう)さんです。

濱田さんは京大短歌に所属されている方で、機関誌「京大短歌」や同人誌「鴨川短歌」「tanqua franca」などで作品が読めます。

濱田さんの歌が良いのは周知の事実だと思い込んでいたのですが、まだ歌集を出されていないので、学生短歌会の機関誌を手に取る機会のない方はまとめて読むことがないのかもしれない……と気づき、ここでご紹介することにしました。この記事が潜在的濱田友郎ファンの方々に届きますように。

 

 

乾が選ぶ濱田友郎の五首

 

スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち 音ゲーが好き

 

「一切の望みを捨てよ」(「京大短歌22号」2016.2.29)※「音」に「おと」とルビ

 

きみだけがぼくに希望をクレタ島 興がのったら海でおよいで

 

「最終話」(「京大短歌23号」2017.8.31)

 

ぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ ロン 九蓮宝燈

 

「そこにいるための技法」(「tanqua franca」2017.11.23)※「九蓮宝燈」に「ちゅうれんぽうとう」とルビ

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

「旅番組について」(詩客2017.9.2)

 

嗚呼ぼくときみのどちらかがぼくでありその退屈さ 雪はすべって

 

「これがわたしの記憶です」(「京大短歌24号」2018.7.28)

 

 

濱田さんの歌は、好きな人はめちゃめちゃ好きだし、わからない人にはよくわからない歌だと思われている、という印象があります。正直、わたしが普段歌会で使っているものさしだと濱田さんの歌の良さは語れないのではないかという疑いはあるのですが、そのあたりは関連する濱田友郎作品を引いてわたしの論を補強するというかたちで五首+α、紹介していきます。以下、敬称略。

 

 

 

 

スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち 音ゲーが好き

 

 

わたしが濱田友郎の歌といってまず思い出すのがこの歌。

 

「スリザリン」「グリフィンドール」は、一応説明しておくと、ハリー・ポッターの舞台であるホグワーツ魔法魔術学校の四つの寮のうちの二つだ。ほかにハッフルパフとレイブンクローという寮があるが、物語の中心として大きく関わってくるのは、主人公ハリーの属するグリフィンドールと、そのライバルであるマルフォイの属するスリザリンのほうで、わたしたちはハリー・ポッターという物語を鑑賞するとき、その二つの寮生の対立を見ることが多い。もちろん、作中で取り上げられていなくても、ハッフルパフにはハッフルパフの、レイブンクローにはレイブンクローの寮生活があるのだが。

 

「スリザリンもグリフィンドールも駄目だった(みたいな気持ち)」ということは、主体が与えられたのは主人公やそのライバルの役ではない(ような気がしている)、ということであり、「駄目だった」という表現から感じられる、組み分け帽子をかぶるまでのわずかな期待が、この歌にかなしい雰囲気を漂わせる。

外部の作品の設定やフレーズを短歌のなかに引用するのは、その作品が有名であればあるほど、むずかしいことだが、ハリーの寮がグリフィンドールに決まるまでのあのシーンの緊張感を、二次創作としてではなく、元のストーリーに飲み込まれない強度を持ってここに引用してきたことが、まずこの一首の手柄だろう。

 

ハリー・ポッターの物語で、寮が途中で変わることはないように、主体は主体の人生の真っ最中であり、別の設定の人生に転入したり編入したりすることは起こり得ない。この人生が続く限り主体は、「みたいな気持ち」をことあるごとに感じるのではないか。そして、「スリザリンもグリフィンドールも駄目だった」ことは、(主体自身にも、読者のわたしにも)変えようがない。

しかし、その「みたいな気持ち」を想像した読者が主体のがっかり感を受け取る前に、すっと差し出されるのが「音ゲーが好き」という結句だ。このなんの役にも立たなさそうな追加の情報が一首全体の雰囲気を<がっかり>には留めない。とはいえ、「音ゲーが好き」によって完全に上書きされるわけでもなくて、結句から読後にかけてうっすら響いてくる「スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち」……の薄いけど確かな存在感は、なにかに失敗したあとそのことがまだ記憶に新しいときの感じ、に似ていると思う。

濱田友郎の歌には読後にその感覚になる歌が結構あって、たとえるなら、コップのお茶をこぼしてしまったあとのような。机は拭いたし新しいお茶も注いだけどなんだか落ち着かない、そういう感覚がこの歌の余韻として漂っている。近い読後感の歌として、同じ連作からもう一首引く。

 

椰子を蹴れば匂いがするよこの感じ、こんなのは人生だからだめ

 

人生のただなかにいる人間が「人生」を把握して「こんなのは人生だからだめ」と評価を口にすることは、漫画のなかのキャラクターが「コマ」に言及しているような、メタ的な表現にも感じられる。濱田の歌は、世界を作り手の意図がある創作物のように捉える見方をよくしている。

 

 

 

きみだけがぼくに希望をクレタ島 興がのったら海でおよいで

 

 

クレタ島」と「(希望を)くれた」をかけるというわかりやすい掛詞に目が行く。それによって一瞬、これはギャグの歌なのか〜で済ませそうになるけど、よく読むと、「ぼくに希望を」くれたのが「きみだけ」であることの狭さと悲しさ、がここにはある。あるはずなのに、この歌は「島」をポイントとしてちょうど水中でターンをするように方向を変え「興がのったら海でおよいで」という楽しげなフレーズへとすすむ。

現代短歌を読んでいて「きみだけがぼくに希望を」で始まる一首があったときに、自然とをその先の流れを考えてしまうが、読者の予想する通りの方向には進んでくれないのが濱田の歌であり、その展開に読者のわたしは惑わされる。

 

一首目もそうだが、前半でかかっているストレスに対して、そこから解放されたように一字空け以後の言葉が提示されるという構造をしていて、

「スリザリンもグリフィンドールも駄目だったみたいな気持ち」のあとの「音ゲーが好き」

「きみだけがぼくに希望をクレタ島」のあとの「興がのったら海でおよいで」

を一首のなかでそれぞれ見比べたとき、歌の前半と後半で、主体の気持ちはほんとうに切り替わっているのかもしれないけれど、ストレスに対して虚勢を張っているように見えなくもない。後半が、主体を見ている誰か(あるいは、この歌を鑑賞している読者)を意識したポーズのように見えてしまったわたしには、この歌がかなしい歌に思えてくる。

濱田友郎の歌を変な歌だと思っている人は多いだろうし、それはたしかにそうなんだけど、わたしは濱田の歌をくりかえし読めば読むほど、変さ以上にかなしさを受け取りたくなる。

 

 

 

ぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ ロン 九蓮宝燈

 

 

※以下、評の都合で映画「トゥルーマン・ショー」のネタバレがあります。知りたくない方は次の歌へ。

 

映画「トゥルーマン・ショー」は、トゥルーマンという、アメリカの離島「シーヘブン」で保険会社に努める明るい青年が主人公。彼は「水恐怖症」のために、30年以上の人生で島を出たことが一度もないが、実はこのシーヘブンの街は全てが巨大なドーム状の作り物。トゥルーマンは生まれた瞬間から24時間常に人生を撮影されており、しかもその映像はリアリティーショーとして1秒残らず世界中に生放送されていて、それを知らないのはトゥルーマンただ一人、という世界。

 

というあらすじを踏まえた上で、この歌を読んでいく。

まず、この歌を含む「そこにいるための技法」は、島をテーマにした連作だ。同じ連作に

 

雪が降るといえば冗談になる土地でわたしは冗談が好きだった

 

という、とても良い歌があるけれど、あまり雪が降らない南国のような島にいると、「雪が降るといえば冗談になる」。そのように、島など、外部から隔離された場所には、その中で作られてそこでだけ通用するルールや雰囲気や決まりがある。主体はどこかの島で暮らしていて、その島が外の世界から閉ざされた場所であることを意識する。だからトゥルーマンと自分が重なる。

 

九蓮宝燈は麻雀の役で、わたしは麻雀をやらないので人に聞いたところ、ポーカーのロイヤルストレートフラッシュくらい、出現する確率が低いものらしい。その役が出る。仕組まれた世界だからこそ出る九蓮宝燈は、通常なら素直に驚いたりその幸運に喜んだりすればいい役だけど、この世界が作り物だと気づいてしまった主体は、九蓮宝燈に対して自分がとるリアクションを見ている観客の存在にも気づいている。ここまで書いてわたしは、これは麻雀の役と物語の役というところまで考えられた歌である気がしてくる。なにがどこまで仕組まれているのかはわからないし、疑い始めたらキリがない。

それでも九蓮宝燈であがるという姿勢。気づいた上で主体は主体という役をつづけていく。その姿勢が、やはりかなしい。

 

気づいていることによるかなしさが濱田友郎の歌にはあって、物語のようにドラマチックなことは人生にはそうそう起こらないし、その人生そのものも永遠には続かない。人生に/出来事に/今日という日に 期待していないからこそ、こんなに冷静に世界を見ているのだろうか。ここまで引いたのは自分自身や世界へ言及する歌だったが、濱田の歌はものへの視線にも独特の冷静さがあると思う。

 

 

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

 

……の話をするために引用したい評があるのでいきなり同じ連作の別の歌にうつるけれど、

 

ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げてとひまわりに言えるのか

 

ミサイルのことがニュースで語られるときに心配すべきは自分の身の安全であって、ひまわりまで視界に入れる必要はない。けど、見ている。

この連作が掲載されている詩客の、浅野大輝による相互評

( https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/3c92991212d7bd569d9119fc5862c87f  )に、

 

  「屋内にいる場合:窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」という文言は、最近よく耳にするものだろう。これは内閣官房国民保護ポータルサイトに掲載されている「弾道ミサイル落下時の行動について」中の一文であるが、「ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げて」というのはそのメッセージを受けてのものと推測できる。このメッセージは、自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである。

 

とある。「自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである」ことを、主体は理解した上で、そのことに疑問を抱いているような視線で<自分の意思で移動できないもの>を見る。同じ連作からもう一首、わたしが好きな歌を引く。

 

駅にある小さな本屋に選ばれた小説なのだ 雨はつづいて

 

この良さを、景の美しさや気づきの歌として処理してしまってもいいけれど、なんでもない雨の日の風景がこの歌のカメラで切り取られることによって、<自分の意思で移動できないもの>としての「小説」が人間によって選ばれて人間の意図によって小さな本屋に置かれるまでの流れを意識させられる。なんでもないように運営されているが世界には<誰かの意図>が蔓延している。

 

さて、話を戻して、

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね…

 

その見方で、年金というシステムに言及する。システムというものは、変えようと思っても個人の力ではどうしようもないし、集団の力を持ってしてもどうにもならないことが多い。

「ならね……」という言いさしは短歌の批評によく使う語でいうと「諦念」になるのだろうが、この歌からは諦めというより、どうこうしようとしてなさ、を感じてしまう。<誰かの意図>に対抗する‘力’として<自分の意思>というものがあるはずだが、主体は<自分の意思>が反映される範囲の狭さをよくわかっている。

 

歌の構造を見ていくと、初句「ドーナツ」の時点で読者の頭にあったドーナツのイデアのようなぼんやりしたものは、四句目で「ポン・デ・リング」に姿を変える。

「母」がもらえる年金が全部でいくらなのかは知る由もないが、少なくともポン・デ・リング(¥100+税)に換算したら相当な数になることが予想される。母の元に溢れかえるポン・デ・リングポン・デ・リングというドーナツは、1つを8粒とも数えられるようなかたちをしているが、歌のなかの「・」「……」によって、視覚にたくさんの●が現れ、数を用意すると迫力を増すドーナツとしてポン・デ・リングというものはあるなぁ、ということに気付かされる。

さて、四句目で「ポン・デ・リング」と言われた読者は、ポン・デ・リングのあのかたちの像を頭のなかに無数に結ぶが、その数をリアルに感じる前に「ならね……」にすべてを掻き消される。下句のあまりの急展開に、一瞬なにが起こったかわからなくなるが、現実にはなにも起こっていないので安心してほしい。どれだけ願っても、現実のシステムに影響することはむずかしく、主体も読者も、そのことをわかっている。

 

 

 

嗚呼ぼくときみのどちらかがぼくでありその退屈さ 雪はすべって

 

 

ぼくときみの二人(の、多くの場合、素敵さ)を切り取ってきて一首として加工するというのは、短歌によくある形だが、この歌のなかのきみとぼくはただ存在するだけで、特別なことはなにも起こらない。

 

「雪はすべって」は、どう読むのがいいのか正直わかっていないけれど……雪の上は滑りやすいということか、はたまた、雪が降るさまを滑るようだと言っているのだろうか。この表現から特定はできないが、助詞が「は」であるから、雪が降ると自分はどうこうという話ではなくて、純粋に「雪」というものの特性を捉えて語っているのだろう。

 

主体は「ぼくときみのどちらかがぼくであり」と言っているけれど、ふつうに考えれば「ぼくときみのどちらか」のうち「ぼく」であるのはぼくのほう、でしかありえない。ぼくはぼくでしかなく、きみはきみでしかない。言い換えれば、自分が他者と入れ替わることはないし、自分と他者が融合してひとつの個体になることもないという、現実世界でごく当たり前とされているルールをここで主体は確認し「その退屈さ」を思う。

 

たとえば、アニメの世界によくある入れ替わりがわたしたちの現実に起こってしまったとして、多くの人はそのような怪奇が起こることを嫌がりそうなものだけれど、主体は、いま起きていることが全く複雑でなく、むしろ単純であることに対して「退屈さ」を感じて「嗚呼」と言う。

劇的な変化が起こらない世界は、主体にとって、対象年齢の低い玩具でずっと遊ばされているようなつまらなさがあるのかもしれない。それがどれだけお気に入りの玩具だったとしても、仕掛けがわかってしまったら、わからなかった頃のように素直には遊べない。

 

ゆばりをからだから棄ててゆきかなしくもうれしくもない宇宙と思う

「誕生日おめでとう」(「NHK短歌2月号」「ジセダイタンカ」2018.1.20)

 

という歌があるけれど、まさに「かなしくもうれしくもない宇宙」の一部としてのこの場所に、ぼくときみはいる。

「ジセダイタンカ」は歌人を紹介する企画で、連作のほかに作者の自己紹介のような短文があり、そこで濱田友郎は

 

  昔から手品というものに憧れがありまして、つまり、コインなどをてのひらで遊ばせているうちに、ふつうの物理法則ではありえないことがおこる。消えたり瞬間移動したり……そういうマジカルな作用を定型で起こしたい、というのが私の目標です。

 

と書いている。それを読んで、濱田の歌を読んでいると読者のわたしの気持ちを予想外の方向へ誘導されたような感覚があることに納得が行く。濱田友郎はエンターテイナーだな、と思う。

 

 

8月7日に伊舎堂仁がツイートで、

 

雪が降るといえば冗談になる土地でわたしは冗談が好きだった

(「そこにいるための技法」)と、

ひとくちめのたばこは空中庭園にとどいたゴルフボールのふるえ

(「最終話」)という歌を引いて、

 

  (自分の歌集でのそれらも含め)ボタンでライトが点くような、引いたぶんチョロQが走るような事くらいしかそこでは起きてないような【冗談】が「短歌」においては多いなか、挙げたような濱田さんの歌には、ほとんど生きもの一匹定型にかくまってるような〈次どう動くのか〉分からない感じがあると思う

(@hito_genomさんのツイート(https://twitter.com/hito_genom/status/1159090203950059520?s=09) )

 

と評していた、その『ほとんど生きもの一匹定型にかくまってるような〈次どう動くのか〉分からない感じ』というのが濱田友郎がやっている手品で、わたしは手品を見るのが好きだ。

あなたが、世界に期待していても、世界を諦めていても、濱田友郎の歌は面白いと思う。

 

 

 

 

「京大短歌25号」をまだ入手できていないので、最新作の話はできなかったんですが、わたしに未読の濱田友郎作品があることがうれしいし、まだまだ世界にはたくさんの良い歌が隠れているのだろうなぁ、という気持ちになります。濱田さんの歌をもっと読みたいと思った方は、「京大短歌」は現在通販を受け付けているようなので、ぜひ読んでみてください。

ここまで、世界の捉え方をベースに濱田さんの歌を読んできましたが、わたしの話ですこしでも濱田友郎の短歌の魅力が伝わっていたらうれしいです。また、濱田さんの歌を知っていてよくわからないと思っていた人に、読み方の道筋のうちのひとつを提供できていたら幸いです。

 

濱田友郎さんの作者としての今後のご活躍を、楽しみにしています。

また、これを読んだあなたの読者としての営みが豊かになることを願っています。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

 

遥香

 

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ありがとうございました。

更新予定

9月4日(水) ネット歌人編 高松紗都子さん

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