歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第13回 温さん
こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。
歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。13回目の今回は温さんにご寄稿いただきました。
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自己紹介
温(あたむ)です。主な活動場所(を書いてください、という指示があるのですが)はどこなんだろう……、まとまった量の歌を出しているのはTwitterと「かばん」です。東京のいろんな歌会にときどきいます、が妥当な自己紹介である気がします。なんか同人誌とかネットプリントとかやりたいですね。こういう自己紹介って難しいし照れるな~~ 影響を受けた歌人を上げるとたぶんほんとうにきりがないんだと思いますが、歌作するときには、脳内の伊舎堂仁さんと服部真里子さんと初谷むいさん的な人たちによる合議がなされている感覚があります……。変なこと言ってたらすみません。
自選5首
テッテレ~(笑) するとあなたの目玉から大量の大粒の消しゴムのかす
なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ
「居酒屋から」(Twitter、2019年2月)
咽るほど献花 そうだよわたしたち飲み残しの生もグー、グーだよ
「咽るほど献花」(『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)
それはMP関節 これはただあなたと鶴を間違うわたし
「歯ぶらし取り替えっこ笑」(『かばん』2018年10月号、2018年10月)
ペンギンが三羽で泳ぐふとこっち見て言う「電話、」「電話は」「好きです?」
(Twitter、2017年12月)
わたしが紹介するのははだしさんです。わたしが紹介するまでもないくらい有名な歌人だと思いますが、短歌結社『なんたる星』のメンバーで、『なんたる星』をはじめ、Twitterでも頻繁に発表されています。「ネット歌人」みたいな括りに有効性があるのかはわかりませんが、それはともかく歌がいい、すごくいい、ので評をしたいです。
温が選ぶはだしさんの5首
あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになったよ
Twitter2019年6月
チョコミントアイスの余波なんでしょうかね、木漏れ日になってしまってます
Twitter2019年3月
Twitter2019年3月
親指はみかんに埋もれてる だけど、これから大逆転がおこるよ
「オセロ」(『なんたる星』2018年2月号)
ピョン吉のまぶたでやんすねぇ、おやびん 今日のことわすれないでやんすよ
「おしゃべり」(『なんたる星』2016年10月号)
前提として、はだしさんの歌に対してわたしの知っている「評」なるものが意味をなすのかすこぶる自信がありません。なぜならはだしさんは、
シャチ #tanka
(Twitter2017年10月)
とか、
中井貴一はドラキュラ
「きいている」(『なんたる星』2017年4月号)
という歌の持ち主なので……。
たぶんもともと思想としては、
一首のちからにぼろ負けするような百首をつくりたいな #tanka
(Twitter2018年10月)
ということなんだろうなと思うと、あえて歌を5首選んで評することじたい根本的にスタンスが空振りである予感はするのですが、とはいえそれ以外の方法を思いつけないので、せいぜいがんばります。以下、敬語と敬称を終了します。
あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになったよ
非常にうれしい気持ちになる歌。
「あなた」が具体的に誰かなんて読まなくていい。ジャンボしいたけの収受が行われた理由も知る必要がない。ただ、「あなた」と呼びたい距離の相手からもらったジャンボしいたけがわたしの手によってジャンボしいたけカツとなったこと、それをこの人が「あなた」に(心の中で)報告したことだけが読み取るべき内容だろう。
語尾の「よ」は、「ね」とか「です」と並んではだしの歌によく施される詩情の処理である。語尾の選択についての感覚が近い(と思う)歌人に初谷むいがいるけど、
絹豆腐あかちゃんみたいに取り出してきのうの愛のすべてだったね
初谷むい「愛の凡て」(『ぬばたま』第二号、2017年11月/『花は泡、そこにいたって会いたいよ』、書肆侃侃房、2018年4月)
語尾に込められた温度が違う。初谷むいの「ね」がさみしいウィンク的な高温を感じさせるのに対し、はだしは、この語尾使ってそんな平熱になれる? っていう平熱ぐあいである。いやむしろ語尾によって落ち着きが増していないか、くらい。それぞれ語尾を削除してみると、語尾の効果における差異は歴然になろう。
あなたから貰ったジャンボしいたけはジャンボしいたけカツになった
絹豆腐あかちゃんみたいに取り出してきのうの愛のすべてだった
「平熱」は、はだしの歌を語るうえで欠かせないキーワードだと思う。
チョコミントアイスの余波なんでしょうかね、木漏れ日になってしまってます
やーこれもほんといい歌。
前述の「平熱」は、こういう「チョコミントアイス」とか「木漏れ日」とかの猛ってる名詞を扱うときに顕著になる。
猛ってるというのはポエジーがあるくらいの意味で、その語彙が連れてくる具体的な手ざわりや色だけで心を動かせる語の特質のことをここでは指すことにする。「アイス」よりも「チョコミントアイス」のほうが、「日光」よりも「木漏れ日」のほうが連れてくる抒情が大きいですよみたいな話だ。しかもこの二語は相性がいい。共通して緑のイメージがあるし、一方は冷たくて一方はあったかいみたいな接続がちょうどよい距離感で噛み合うので、猛ってる歌を作るならこれだけで勝負できる。
チョコミントアイス売り場にふりそそぐ五月の午後の燃えて木漏れ日
(猛ってるっぽい歌の作例)
しかし、そうはならない。「チョコミントアイス」と「木漏れ日」はそういう抒情方向には処理されない。構文に乗せられて「あいよ」と提示されるだけである。
この歌は「困ってる現場責任者が言うこと」っぽい構文を持つ(台風の余波なんでしょうかね、倒木してしまってます)。ほんらいの居場所ではない構文に置かれることで「チョコミントアイス」や「木漏れ日」の猛りは沈静され、おとなしくなった状態の「チョコミントアイス」と「木漏れ日」が、あんがい居心地よさそうに並ぶことになる。『千と千尋の神隠し』の、猛り狂って走り回ったあげく海に連れられるうちにおとなしくなっちゃったカオナシ、みたいな。「平熱」とは、このような状態である。
いや、足軽を設定に使うのかよ!
こういう飛び道具みたいな(と短歌界隈では認識されうる)語を使うとき、ふつうはそこを一首のサビにしたい気持ちが働くものだと思う。というかサビを盛り上げるために飛び道具を使う、くらいのことがある。
しかし、この歌は逆である。重きはあくまで「ふたりの仲」が深まっていく過程のうつくしさみたいなものに置かれている。「ふたりの仲は」の前の一字空けはそっちの読みどころを提示していよう。
非日常ではなく日常の語彙として提示された「足軽」は、したがって、飛び道具などではなくごく普通に愛しい人間として歌の中に現れる。行軍中のことなのだろう。たまたま同じ部隊に振り分けられたふたりが隣で歩いていて、はじめは緊張していたところ、ぽつりぽつりと喋るうちに少しずつ打ち解けていく。読者の側も、行進という状況を自分の体験の何がしかから引っ張り出して(遠足とか運動会とか『夜のピクニック』とか)、ひたすら歩いているとなんでか普段話さないようなことも話せて思いがけず仲良くなれるようなことってあるよね、という共感に引き込まれる。でも足軽だし、戦に出たら死んじゃうのかなぁ。こんなにもふたりを人間として扱っているこの歌の、ふたりに対する「足軽」という役職呼ばわりは、戦と死の気配をその状況に付与し、睦まじさに対してわずかに俯瞰をもたらす効果があると思う。個人的にはこの歌、今回選んだ5首の中でも泣ける枠だと思うんですけどどうですか。
はだしの歌には、ちょっと短歌界隈では見ないような語が散見される。しかし、それをもって語彙の面白さで勝負している歌人だと判断するのは早計だ。語は、文体や置きどころによって平熱化されている。やっぱり語の選択だけじゃなく、それが構築する歌のよさの人なのだ。
親指はみかんに埋もれてる だけど、これから大逆転がおこるよ
書いている内容はなんてことはない。みかんを食べようとして、皮をむかんとくぼみに親指差し込んでいるときのことだろう。確かにその瞬間、指はみかんに負けていると言われればまぁそんな気がする(?)。そしてその後、親指は復活して下から皮をまくり上げ、大逆転を果たすのだと言われればそんな気がする(?)。
はだしの歌には、一首目に挙げたジャンボしいたけカツの歌もそうだけど「その話しかしない」ことの強さがしばしば現れる。
短歌を仮に、いかに端的な表現で強い印象を与えるかという競技だと考えた場合、「もう1個の話をする」戦法は無視できない有効性を持つ。つぶやき+実景の組み合わせでもいいし、語と語の二物衝突でもいいし、具象と喩でもいいし、ともかく1つの話では起こらない化学反応を「もう1個の話」の配置によって起こすことは、音数の限られたこの形式においてきわめて効率的だ。そういう考えの人が、みかんを食べようとしたときの親指の動きに一時的な敗北と復活の構図を見たのならおそらくこうなる。
親指がみかんに埋もれ、またあらわれるごとくあなたを好きであること
(もう1個の話をする場合の作例)
掲出歌と比較すると(作例が下手なだけかもしれないけど)ぜんぜん違う。納得はしやすい。沈んだり上がったりいろいろあるけどあなたが好きですよ~的な感じのことを、みかんをむく動作をしたときにふと実感したのだろう、みたいな解釈が成立する。みかんと親指の話は恋愛の喩として飼いならされ、居心地よく読み終わって次の歌に移れそうだ。
しかし、この作例からはもう掲出歌の持つ不可思議な力は奪い去られている。何の喩でもなかったときの、みかんVS親指が帯びていた寓話性。一回の現象としてより、定式的なある種の原理として説明された一時的な敗北と復活の話。背後に見えるアンパンマン、ヒールにやられるレスラー、イエス・キリスト、その他この定式に乗ってきた者たち……。「その話しかしない」ことの強さとは、読者が見通せる地平線の広さである。簡単に消費し尽くされることを拒む自由度の高さに読者は、どういう歌だったんだろう、と消化不良のままドキドキしながら次の歌に移ることになる。そういうことのほうが、「済」のハンコを歌に押し続ける作業よりも何倍も豊かだと思う。
ピョン吉のまぶたでやんすねぇ、おやびん 今日のことわすれないでやんすよ
これはもう評するとかそういうのではない。最高か。
……だとこれで終わるので、部分的にでも歌に触れてみたい。「ピョン吉のまぶた」はもうタッチしない。これに言及することは、美術館で絵に直接触るみたいな行為である気がする。良すぎる。
はだしの歌にときどき出てくる「子分」口調は、語尾の選択としての「よ」「ね」「です」の延長線上にあるのだろう。これまで「平熱」というキーワードではだしについて理解しようとしてきたけど、「平熱」とは必ずしも覚めているとか、ドライであるということではない。それは掲出歌の「おやびん 今日のことわすれないでやんすよ」から明らかだと思う。熱さをできるだけ熱いまま歌に持ってくる、というのは確かにはだしの扱いたい領域ではないのだろう。それでも心の揺れ動く時間を歌に落とし込もうとするときに、「子分」口調はその揺れ動きを安全に歌に着地させるマットのような役割を果たしている。というか、「子分」口調に限らず、はだしの歌全般に対してこの説明は適用できるかもしれない。語尾による処理も構文による処理も、これまでに見てきたものはほとんど、その力を弱めることで逆説的に、熱さや揺れが一瞬で消えてしまうことのないよう、短歌として少しでも生き永らえられるように、この作者が用意した装置なのかもしれない。
この歌に関して言えるのはそのくらいである。あとはもう「良い」しかない。この良さを拾う評はできないと思うので――この歌のみならず、はだしさんの歌の良さを拾いきる評はできないと思うので、ここまでにしておきます。
以上、前回の瀬口さんに続き長くなってしまいましたが、はだしさんのよさが伝われば幸いです。今回、このような機会をいただいたおかげでこれまでのはだしさんの歌をさかのぼるためTwitterや『なんたる星』を読み返すことになり、それはとても良い時間でした。ありがとうございました!
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ありがとうございました。
更新予定
7月17日(水) 学生短歌会編 神野優菜さん
7月24日(水) ネット歌人編 はだしさん
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