歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第12回 瀬口真司さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編です。12回目の今回は瀬口真司さんにご寄稿いただきました。

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こんにちは、瀬口真司(せぐち・まさし)と申します。立教大学大学院文学研究科日本文学専攻で主に塚本邦雄の初期歌集について研究している大学院生です。現在所属している結社・学生短歌会等はありませんが、以前は広島大学俳句・短歌研究会(※2018年3月解散)におりました。いまの主な作品発表媒体は眞子和也さん、水野葵以さんと活動中のネットプリント「ウゾームゾーム」です。「ウゾームゾーム」は近日中に「vol.3」を配信予定です。お近くのコンビニでよろしくお願いします。

 

自選5首

そのときはサーカスみたいに見えたのに近づいたらおれでした、すみません。

短歌道場in古今伝授の里(2017年12月)

詩ではなく詩人の作るものであり、ときに炒飯みたいにうまい

ガムを燃やして遊ぶみたいな夕方がある二十代 きらり風騒

以上二首、「きらり風騒」(「ウゾームゾームvol.1」、2019年1月)

恥ずかしいことが明るい大人なのにピースがさっき覚えたみたい

一同は起立したあと門を出て、用事があれば行く永田町

「パチ」(「ウゾームゾームvol.2」、2019年3月)

 

今回私がご紹介するのは温(あたむ)さんです。温さんは「かばん」に所属している歌人で、主な活動媒体も「かばん」であり今回の趣旨にまっすぐあてはまらないかもしれませんが、①インターネット(Twitter)で公開された、②まとまった、③面白い作品を発表している歌人としてご紹介することにいたします。

 

瀬口が選ぶ温さんの5首

 

じゃあまたね、グミ 眠れればとても耳あなたのようなあなたの体重

富山にはジンジャーハイがないと言うそして金魚はとても多いと

うぶな馬 間違っているチョコレート 好きとはどうしようもない星

「居酒屋から」(50首、温さんのTwitterより、2019年2月3日)

地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯なんかしましたかこんなの見せられて

そういえば昨夜あなたは蟻の列みたいな涙を そういえばじゃねえな

「咽るほど献花」(30首、『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)

                                                                                                               

(以下、敬称略。)

 

じゃあまたね、グミ 眠れればとても耳あなたのようなあなたの体重

 

温の歌にはしばしば指示対象を持たない比喩が用いられていると思う。たとえばこの「耳」。文中のポジションでいえばこの「耳」の位置には程度のあるもの、この場合〈うれしい〉とか〈楽しい〉といった形容が来るべきだろう。それを踏まえて、何らかの形容と置換可能な意味を担った隠喩としてこの「耳」を受け取りたい。だが、ここでは眠ることができるということは「耳」である。「とても耳」……。おそらくこの「耳」はさっき「じゃあまたね」と別れた「グミ」の響きが連れてきたものだろう。韻だとすれば〈海〉とか〈罪〉とか〈ムーミン〉とか言っておけばそこに在るはずのなにかの比喩としてなんとなく成立してしまいそうなものを、そうした味の濃い言葉が余計な意味を帯びて何かを示してしまうことを拒むように意味のうすい「耳」が連れて来られているのはどういうことか。

下句「あなたのようなあなたの体重」では、トートロジーめいた直喩で「あなたの体重」が「あなたのよう」だと述べられるが、はっきり直喩の体をとりながらエラー寸前の文が組み立てられている。変動するものである「体重」について、現在の「あなた」の「体重」は、いかにも「あなた」にしっくりきていますよ、と言っているのではなさそうな雰囲気が直前の「耳」によって(さらに「グミ」に呼びかけるヘンな導入によって)もたらされている。

比喩や韻を用いるときは、意味の遠いもの同士や実際にはそうではないもの同士を結びつけるのがセオリーだろう。しかし、ここではそうした技巧の詩的価値を俯瞰し、意味上の遠さではなく構文上の選択不可能性という別の遠さを使っているようだ。セオリーを疑っている、というとクリティカルな感じもするが、ちょっとバグ技っぽいぞ!とも思う。

単にセオリーへの逆張りであればもっと嫌な感じがするだろうが、そうでもないのは「あなた」、「あなたの体重」を、比喩で別のイメージに変換してしまわないことで「あなた」の丸ごとの肯定をしようとしているからであり、それが結果的に脱力感のあるフレーズになっているからだろう。「耳」に象徴的な意味が付与されないのは「あなた」にとっても読者にとっても助かることかもしれない。

 

富山にはジンジャーハイがないと言うそして金魚はとても多いと

 

そんなことがあるかよと思う。

「居酒屋から」50首には、「富山」に所縁があると思われる「あなた」の(「富山」にまつわる?)でたらめが(というか、「あなた」の言葉を観察し、ふざけっぽいものとしてこちらに伝えてこようとする語りの態度が)存在する。≪溶けかけのトマトアイスのような また富山に無い物で喩えてる≫≪口からはまるで万国旗のように絶えずわかめが出てくるあなた≫

 自分の知り合いの富山有識者に真偽を確認するのもはばかられる情報だが、掲出歌には「あなた」の自虐を経由した〈レペゼン〉の感覚を読み取りたい。この手の与太を飛ばすひとはいるものだ。ただし、こちらが安心して茶化しに加担できるのは与太ゆえにではない。

≪駅員が居酒屋まで聞こえる声でまた劇したいみんなと、と言う≫≪店員が駅に聞こえるあの声でコンビニ行くけどどうする、と言う≫

掲出歌の前後には何かを「言う」他の人物たちも登場するが、それを面白がる語りの態度は異なると思う。「駅員」や「店員」の妙でイレギュラーな発話を伝えてくるときには、ややある距離が保たれたままだが、掲出歌の語順は発話の生っぽさが低く、語り手によるおもしろ加工が施されている。

この歌のホラっぽさは「ジンジャーハイ」がなくて「金魚」がとても多いという2つの情報のいびつなバランスや、それが繰り出されるテンポのよさとともに、「智恵子は東京に空が無いといふ」(高村光太郎「あどけない話」『智恵子抄』)をものすごく俗にずらしたような上句の調子に起因している。というか、それが核だろう。この大ネタ使いによってふざけの真顔感の増強が行われている。このギャップを経て、想定される〈ここにある情報を最初に提示したひとの発話〉そのものよりこの歌はおもしろくなっているはずだ。この歌は連作中珍しく、ギャグですという表情の見せ方がうまいのだ。(そもそもこの連作は冒頭一首目の初句が「テッテレ~(笑)」で、基本の表情やテンションが非常につかみづらい)

 

 

うぶな馬 間違っているチョコレート 好きとはどうしようもない星

 

一字空けを用いて、相互に結び付けられないまま3つのものが提示される。「うぶな馬」、「間違っているチョコレート」、「どうしようもない星」。まず提示されたひとつひとつのものにときめく。これらはそれぞれが珍しく、甘やかで、一首通して古着屋が小皿に盛って売っている旧共産圏のピンバッジみたいなかわいさがある。

「うぶな馬」には、そんなもんいねーだろとつっこまされた直後にう~んいや、いるのか……?と思わされるし、「間違っているチョコレート」には、場合によってはね、と思ってしまう。妙な親しみを覚えている。現実にあるのだかないのだかわらからない、ともすると一生用事のないようなイメージたちだが、この<ちょっとヘン>具合は心地よい。

この2つの後に述べられる「好きとはどうしようもない星」に対しては、このひと自身がそのフレーズに納得している感じが強いためこちらからは、そうですか、と言うことしかできないが、個人的な好意を「どうしようもない」ものとして言っているのではなく、普遍的に「好き」なる感情は「どうしようもない星」であると言い切っている点には共感していける可能性がある。この「好き」も「うぶな馬」や「間違っているチョコレート」と同じ世界のものだ。「好きとは」という接続の仕方は<ちょっとヘン>である。

 

地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯なんかしましたかこんなの見せられて

 

ここから2首は「咽るほど献花」(30首、『『かばん』新人特集号 第7号』、2018年12月)から引いてみたい。「咽るほど献花」は緊密に編まれた文脈やギミックのある連作だがここでは歌人の紹介を優先して歌を引くことにする。

服部真里子が「そもそも歌のメンタルが(笑)を含んでいる」、「自分を、ときには世界そのものを、常に外側からとらえる視点を失わない。これが私の言う「(笑)」だ。」(「幼さと多幸感と「(笑)」」同号)と評したように温の歌にはメタな視点がある。それは1首目でみたように(作者のレベルで)短歌のセオリーに対して向けられることもあれば、この歌のように歌の中の主体の態度としてあらわれるものでもある。「こんなの」を見せられている姿は不憫というか、まあ気の毒だが、すぐさまその状況自体を笑いこなす「なんかしましたか」が言えていることで「地に叩き落されるあまた玉蜀黍の芯」という謎の突飛な状況がこちらにも面白いものとして伝わってくる。他にも連作や歌の中でヘンすぎることはいくつも起っているが、「(笑)」のメンタルやメタなユーモアは、こちらがついていけないくらいヘンすぎる状況を笑えるものとして提示してくれる親切さに見えることがある。

 

そういえば昨夜あなたは蟻の列みたいな涙を そういえばじゃねえな

 

みてきたように、ユーモアのフィルターをとおしてさまざまな「(笑)」やメタやずらしや批評を仕掛ける作者だが、そういえば「あなた」が歌によく登場してくることが気になる。<あなた>、を詠み込めば相聞歌として読まれやすいだろうと素朴に思うが、そういう磁場や<あなた>自体とはどのように向き合っているのだろうか。

 一首目では「あなた」は「あなた」以外のものにたとえられていなかったが、ここでは「あなた」の「涙」が「蟻の列」にたとえられる。筋状に流れる「涙」ではなく、こぼれる粒のひとつひとつが「蟻」の一匹一匹になって顔を這っているようなイメージだろうか。グロテスクでちょっとこわくて面白い比喩だ。しかし、せっかくの比喩は宙吊りにされる。「そういえば」と言い出したくせに「そういえばじゃねえな」という頭からの否定がやってくる。≪そういえばいつもの癖で米二合炊いてたわ そういえばじゃねえわ≫という歌もある。一人相撲的な身のこなしの早さに笑ってしまう。

やはり前提に対する批評が「そういえばじゃねえわ」、「そういえばじゃねえな」というすばやい思い直しによってあらわされている。結果的にここで「あなた」は「あなた」自身の姿を晒さない存在のままである。温の歌についてそれがどのような意味を持つか、今後の活動を注視しながら考えていきたいところである。

 

 

以上、かなり長くなってしまいましたが、評を通して温さんの歌の面白さや批評性をお伝えできていたらうれしいです。私自身、温さんのおもしろがっていることや、そのおもしろがりかたにシンパシーを感じていたり興味があったりしています。温さんは歌会の評や評論でもオリジナルの切り口をもっている歌人なので、ぜひみなさんにも注目していただきたいです。ありがとうございました。

 

瀬口真司

 

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ありがとうございました。

更新予定

7月3日(水) 学生短歌会編 雪吉千春さん

7月10日(水) ネット歌人編 温さん

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