歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第3回 瀬田光さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第3回は瀬田光さんをお迎えします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

自己紹介

こんにちは、立命館大学短歌会所属の瀬田光(せた・ひかり)です。

1998年11月20日生まれ、歌歴は2年ほどです。

好き:ラーメン、蕎麦

嫌い:ネギ(味が嫌)

Twitter:@setabright

 

自選5首

手放した犬が駆けてく海の中は給食室の匂いがした

(淡島うるさんの「パラフィンペーパー・パラダイス」に寄せて/『Crescent Chocolat vol.2』)

ケーキの箱をふりかざし波ぎわを飛び越えてくる幸せな奴

ペカンの木をみつけて喜ぶ友だちの名前の意味に今さら気づく

出会ったときと同じ構図で口もとにサンドイッチを押しつけられる

(「光たるもの」/『立命短歌第6号』)

冬の排気ガスはおいしいという持論 出がけに花瓶を倒したままだ

(瀬田のiphoneのメモ帳より)

 

作品は基本的に立命短歌にしか寄稿していませんが、企画などお誘いいただければ積極的に参加させていただきたいと思っています。

 

さて、今回私が紹介させていただくのは、同じく立命館大学短歌会に所属する淡島うるさんです。

(以下、前置きが長いので忙しい方は「瀬田が選ぶ淡島うるの5首」から読んでください。)

大学に入学するまでほとんど短歌というものを読まず、また詠まず、学生歌人の作品に至っては殆どふれたことすらなかった私の短歌観は、立命短歌会に所属してまず目にした淡島さんらの作品によって塗り替えられ、そして拓かれました。それまで短歌の世界を観測する目すら持たなかった人間が、彼女らの歌の感性を移植されることによって、他者の歌の中に立ち現れる風、色、匂い、光、切なさというものをより豊かに感じ取るすべを得たのです。

まだまだ借り物の目を通して間接的に短歌を鑑賞しているような節はありますが(少し不誠実な書き方かもしれません、すみません)、それでも手探りで誰かの心とその表現にできるかぎり寄り添おうとする作業は、私に得難い嬉しさを与えてくれます。

長々と語りましたが、とにかく私の短歌鑑賞の原点は淡島さんをはじめとした立短会員の作品との出会いです。なかでも淡島さんの作品は、まぎれもない他者の言葉でありながら、だからこそ、何が詠まれているのか分かったと感じたときにいっそう強い共鳴を覚えるというパターンを私にはじめて教えてくれた原点中の原点です。

ですから今回は少し初心にかえって、淡島さんの作品群の中から5首引かせてもらい、ひとつひとつ読んでいけたらと思っています。

 

瀬田が選ぶ淡島うるの5首

葡萄牙製のココアの練り方を忘れた祖母は帽子が似合う

(「金木犀とゴキブリ」/『立命短歌第四号』)

寄ってきたうさぎの目脂だらけの目 豪雨の中に突っ立っている

(「バッファ」/ネットプリント『いちろくみそひと同期会』)

志を持て志 オムレツにだけはいっぱいバターを使う

(「トランポリン」/ネットプリントねこまんまvol.4』)

りつぜん、と聞くとき高い空があってずっといい意味だと思ってた

不可解な経緯を愛とまとめれば スナメリ やっと生きたさに泣く

(「パレイドリア」/『立命短歌第六号』)

 

淡島さんの短歌にはしばしば、まるで作者の記憶の中からそこだけ切り取られてポンと歌に放り込まれたような、比較的具体的で輪郭のはっきりとしたモチーフや情景が描かれます。確固たる世界観から引き抜かれてきたそれらのモチーフは、独自の世界観を作者と完全には共有することのできない読み手に対し、不思議な存在感をもって迫ってきます。

例えば、

 

葡萄牙製のココアの練り方を忘れた祖母は帽子が似合う

 

ここで描写されるのは、ただの粉末ココアではありません。あくまで「葡萄牙製のココア」というアイテムなのです。粉末ココアに「葡萄牙製」というものものしい属性が付加されることによって、読み手の日常にもありふれたありきたりなモチーフは、完全に作者独自の生活・世界観に根差したものとして確立されます。さらに、ココアをミルク(またはお湯)に溶かす前にきちんと練っておくというこの家庭の生活の知識も相まって、作品はある種の強烈な私性を帯び始めます。強烈でありながらも、淡々としていてくどすぎない私性です。

 このような歌を前にしたとき、私はいつも友達の家の調度品や日用品を眺めているときのような感覚に陥ります。他の家庭という別世界の構成物がふと目に入った瞬間の、何とも言えない居心地の悪さと好奇心の掻き立てられる感じ。けれどもそれは不思議と不快なものではありません。作中主体とはかけはなれた環境で生活する読み手に対しても、この歌に登場するモチーフは平等に同じ距離感でそこに現れます。この歌の表現はそれだけの力を持っているように思います。

たとえ描かれているものが自分の世界にはないアイテムや習慣であるとしても、私たちは具体的で明確な描写によってそれらを追体験し、葡萄牙製のココアの缶や、かつてココアの粉末を練った祖母の手つきをすぐそこに感じることができるのです。

 実際問題、私にとっては「葡萄牙製のココア」もそれをペースト状に練ってから溶かすという習慣も、あまり馴染みのないものです。しかし、もしこれらが自分の世界に当たり前に存在するものであったとしたら、果たして私はそれをあえて短歌に表現しようとしたでしょうか。そのことを考えると、しみじみ淡島さんには敵わないなあと思わされます。

なんだかモチーフ選択の話ばかりで歌そのものの話があまりできていないのですが! そういえば「葡萄牙ポルトガル)」という表記にも淡島さん独特の感性が表れている気がします。ココアを練って飲んでいた、帽子の似合う祖母の丁寧な暮らしに似つかわしい言葉選び。日々繰り返されていた祖母の生活に突然訪れた忘却は、やはり老いによるものでしょうか。ココアと帽子というどこか幼さを感じさせるモチーフは、忘却によって人にもたらされるある種の無垢さを示しているようでもあります。

 

淡島作品に登場するモチーフの具体性、独特の着眼点は、次の作品にも見られます。

 

寄ってきたうさぎの目脂だらけの目 豪雨の中に突っ立っている

 

うさぎはとてもかわいいので、短歌にしたいと思う人はきっと掃いて捨てるほどいます。しかし例によって例のごとく、ここで描かれるのはただのうさぎの姿ではありません。「寄ってきたうさぎ」の、「目脂だらけの目」なのです。

詩歌の中だけに限らず、動物のリアルな生理現象というのはとかく無視されがちだと思います。注目されてもせいぜい犬猫の糞尿くらいでしょうか。仕方のないことですが、世の中には動物の無垢さ、姿かたちの愛らしさ、生態の逞しさなど、そのきれいな面にばかりフォーカスした表現が氾濫しています。

その点、引用歌では「寄ってきたうさぎ」というひとつの命が持つ不浄な部分が容赦なく言い当てられており、思わずはっとさせられます。宮崎駿もののけ姫』に登場する乙事主の老いて白く濁った瞳をほうふつとさせるような、目脂にまみれたうさぎの目。野生にしろ放し飼いにしろ室内飼いにしろ、そこには自然ひいては世界の残酷さ、容赦のなさが正しく表れているのではないでしょうか。

下句では、そういった世界の容赦のなさが「豪雨」という自然現象につながり、主体に襲い掛かります。「豪雨の中で突っ立っ」ている主体の呆然とした感じに淡々とした語調が似つかわしく、やりきれなさがつのります。

 

志を持て志 オムレツにだけはいっぱいバターを使う

 

志を持て志、という独特のフレーズが妙に板についていて、好きな歌です。主体は常日頃からこうやって自分を律する言葉を唱えながら生きているのでしょうか。やはり自分には到底思いつかないような言い方であるからこそ、魅力を感じてしまいます。このフレーズの面白さが「オムレツにだけはバターをいっぱい使う」という何てことのない部分にも効いており、歌全体に一つの筋を通しています。

この「志」というのは、オムレツ以外にはバターをあまり使わないというダイエットの意思を表しているのかもしれないし、もしかしたら全く別の予想も通貨ないような「志」のことを言っているのかもしれない。どちらの読み方をしても良いと心から思えるほど、「志を持て志」という言葉は秀逸であると感じます。

 

りつぜん、と聞くとき高い空があってずっといい意味だと思ってた

 

主体の実感を述べることに終始した歌で、「慄然」という語を知らなかった頃のことを覚えていない読み手にとっては、他人の過去の発見と驚きが書かれているだけの歌に過ぎないはずなのに、こんなにも共感を覚えてしまうのはなぜだろう。

ひらがなで書かれた「りつぜん」という語は確かに涼やかで、青く晴れた夏の空を思わせます。ら行の音が語頭に立っていることがやはり大きいのでしょうか。「高い空」が「いい意味」に直結する主体の連想にも共感せずにはいられません。

また、「りつぜん」の語の響きから「高い空」を連想していたということを、ただ「高い空があって」と表現する言語感覚にはしみじみ感嘆してしまいます。共感覚的にぱっと情景を連想する様子と、「りつぜん」を言葉の意味を知らない幼さが効果的に表現されているように思います。

 

不可解な経緯を愛とまとめれば スナメリ やっと生きたさに泣く

 

「不可解な経緯」が何を指しているのか、それは読み手によってさまざまな解釈があるでしょうが、主体はこのよくわからないいくつかの出来事を他者から自分への(もしくは自分から他者への)「愛」なのだと結論づけ、そのことによって救われ、「やっと生きたさに泣く」ことができるようになります。

引用歌の導入部分と結論部分の間に挟まる「スナメリ」という単語は、一見前の文脈とも後ろの文脈ともつながっているようには見えず、唐突といえば唐突な言葉なのかもしれません。しかし、「スナメリ」という語感の気持ちよさはそのような違和感を払拭するには十分すぎるほどです。導入から独特のスピード感を持った引用歌は、「スナメリ」という語の割り込みによって失速するどころか、かえって不思議なメリハリの良さを獲得しています。

意味を考えずともすでに魅力的な「スナメリ」の語ですが、一応触れておくと、背びれのないつるんとしたイルカ、という感じの、ちょっと間抜けなフォルムをした海洋生物です。なんだかやけに愛しい顔をしている。泳ぎにくそうな体の構造をしている分、その躯体にはものすごい濃度の命が詰まっているように見えます。そのスナメリを目にしたのか、思い浮かべたのか、とにかく主体はスナメリのイメージと共に、泣くほどに生きてゆきたいと感じる気持ちを手にするのです。

「生きたさに泣く」というフレーズには不穏な背景も読み取れなくはないですが、私はあくまで明るく前向きな言葉であると解釈しています。日常の中の不可解な出来事、愛、スナメリの泳ぐ浅瀬には、仄かな光を感じます。その仄かな光の中で、主体は自分が生きていくということを肯定するのです。

 

 

 ここで紹介した歌はどれも、淡島さんの優れた言語センスがいかんなく発揮された作品です。作品に込めるべき私性を守りながら、読み手の共鳴を誘う淡島さんの短歌のさじ加減は絶妙で、卓越した言語表現の技術をうかがわせます。

ここに引用した以外の短歌、連作などもすぐれた作品ばかりですので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思っております。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ありがとうございました。

更新予定

4月17日(水) ネット歌人編 しま・しましまさん

4月24日(水) 学生短歌会編 淡島うるさん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。詳しくはこちら