『さんばしvol.1』相互評 [評]御殿山みなみさん [作品]菊竹胡乃美さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

いよいよさんばしによる同人誌『さんばし vol.1』の発行日、11月24日が迫ってきました!

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目次はこちらです。豪華なゲストにご注目ください。なんと80ページにもなってしまいました…!

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ゲスト同士の相互評を公開していきます。

今回は御殿山みなみさんに、菊竹胡乃美さんの一首を評していただきました。

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 産むことをいやがる雌の鶏を抱くわかりたいよ同じ女として /菊竹胡乃美

 

 

 下句の「わかりたいよ」に惹かれた。韻律としては「わかりたいよ/同じ/女として」と三分割されているように読めるが、拍数が下句相当であるのでそこまで違和感なく読める。「わかりたいよ」とふくらむような音と意思が強靭で、しっかりと実感のアクセントが効いている歌だなと思う。

 引用歌の収められている連作は、主体自身が女性であることに関連した思索の垣間見える歌を中心に構成されており、引用歌も同カテゴリのイデオロギーが込められている。上句、主体は鶏を抱いていて、それは産むことを義務付けられている鶏のようだ。畜産業的なそれなのかもしれない。推測だが、この鶏は産まなければいけない鶏であるような気がする。

 それに対して主体が人間の女性に置き換え、出産について思考していることは明らかだ。ただ、そこで示されているのは「わかりたい」の願望であって、「わかる」の断定ではない。むしろ、この鶏を主体はわからないのである。

 それでも、主体が鶏を通じて、女性/雌という属性に宿る/宿らされている「出産」というある種のシステムに、疑義を持っていることは伝わるし、主体はそこの把握を正直に、自分を取り巻く人間のシステムに関しては間違いなくこうだ、と思っていることを、鶏に安易に置き換えず、それでもその文脈で語りたい、という態度を明示している。その方が、真摯である。

 きっと鶏の「いやがり」を「わかる」と言ってしまって人間社会を詠うと、反論はないだろうが反感として「鶏のなにがわかる」というものを持たれうるのだろう。その領域には安易に踏み込まず、そのうえでパラレルな構造の提示をしているのが、強い。なにせ、「わかりたい」ではあるものの、その鶏は「同じ女」なのだから。

 

 御殿山みなみ

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『さんばし vol.1』は2019年11月24日の文学フリマ東京(公式サイト)にて発行されます。

その後通販も開始予定です。

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