『現代鳥獣戯画』一首評

ご恵投いただきました『現代鳥獣戯画』の一首評です。

 

 

 

終わらない夢にしようよカナリアと見たビー玉はこわれない、はず

 

 岡田美幸『現代鳥獣戯画』から連作「いきもの」の一首を引いた。

 語り手の「終わらない夢にしようよ」という語りかけがあり、そこで切れて「カナリアと見たビー玉はこわれない、はず」というつぶやきのような発話に繋がっているという構造である。その前後の間で「終わらない」ことと「こわれない」ことは重ねられていて、しかしその完全さには疑問が呈される。

 切れの前では「終わらない」はまず「夢」を修飾している。終わらせたくないのだから、この夢はポジティヴなニュアンスを帯びている。終わらない夢、それは永遠に続く「よきもの」であるのだろう。語り手は聞き手をそこへいざなう。ここで「しようよ」が興味深い。終わらない夢が存在しそこへ入っていくのではなく、まず夢があり、それを主体的に終わらないものにしていこう、と語り手は誘う。つまり、今存在する夢はいつか終わるものである。それを無欠にしようというのが語り手の呼びかけだ。

 切れの後ろに焦点を移そう。ここで語り手は聞き手の存在を放棄し、ひとり呟く。かつてカナリアと見たビー玉はこわれない、と言い聞かせながら、そこに疑問が浮かんでしまい信じきれない様子が伺える。今はまだ壊れていないビー玉が手元にあり、でもその永遠性は信じきれない。そしてそのビー玉はカナリアと一緒に見たものであるという。カナリアの持つイメージとしては歌声の美しさや、炭鉱に籠を吊るすとガスが発生したときに最初に死ぬので分かるという話が挙げられるが、ここでは後者を利用して読みを進める。というのは、「終わらない」と「こわれない」が重ねられることによって歌全体にかえって滅びの雰囲気がただよっているからだ。そのイメージはカナリアにも重ねられ、滅びの象徴であるカナリアと一緒に見たビー玉はそれ自体も終わりの空気を纏ってしまう。「こわれない、はず」という発話は、こわれることを薄々察しているからこそのすがるような祈りではないだろうか。

 それを踏まえて前半の検討に戻ると、終わらない夢もいつか終わる、つまりそんなものは存在しないことを語り手は予感しているのではないか。それでも聞き手をそこへ誘おうとする、そのあり方に薄ら寒さを覚える。

 

評:鈴木えて

 

 

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