『geko』一首評

海だっていえば海にも見えるけど私のために設えた墓

/山川創「錯視の日」

 

 一読して非常に惹かれた歌だが、その理由をすぐに言語化するのが難しい歌でもある。

 そのままの景を描くなら、いわゆる墓石があり(連作中に「ビル」が出てくるためおそらく舞台は現在であり、現在であるなら法規上土饅頭ではなさそうである)、それが海にも見えてしまう。

 墓を自分のために設える。この場合「設えられた」となっていないので、自分で(あるいは自分を含む集団で)設えたのであろう。そこには強い死の予感がある。最近は生前葬もあり、生きているうちに墓を買うこともあるだろうが、この歌の死の予感はもう少し切迫したものであるように思われる。というのも、同じ連作中に〈希死念慮 息を止めても音のない車で運ばれてしまうだけ〉という歌があり、人生の終盤で穏やかに死の準備をするというよりはもがきの中で死に憧れるような態度だと予想できる。これを踏まえると、「設える」はよく選ばれた動詞であるように思われる。

しつらえる【設える】:きちんと、また美しく設けととのえる。(『広辞苑 第六版』より)

「設える」には「準備する」以上に整えるというニュアンスがあり、そこには美的感覚が伺える。そこに死を美化するような意識が読み取れる。

 そして、その死への憧れの象徴としての「墓」が海にも見えるという。海の広がりを持った爽やかなイメージから、墓という物体に収束する視点の移動がおもしろい。そしてそれと並行して、明るいイメージから死のイメージに変化し、それが翻って海というものの中の死のイメージを喚起する。墓と海の距離感がとてもちょうどいいと思うのだ。墓は日に照らされるとまぶしく光を反射して、海のようだと言われれば少し共感できるところがある。

 読めば読むほど、それぞれの語彙がよく練って選ばれていると感じる一首である。

 

評:鈴木えて