歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第9回 nu_koさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

さて、今回は歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編第9回です。nu_koさんにご寄稿いただきました。

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自己紹介

こんにちは、ぬこ(nu_ko)と申します。2016年頃から短歌をつくりはじめ、普段はTwitter(@nukothecat)やネット歌会で、たまにネットプリントなどの企画に参加させていただいています。原平和の名義で出すこともあります。関西在住です。

 

自選5首

右上のツキノワグマに気づかずにひとりでピースしてるのが俺

うちあげが叙々苑だって知ってたらベビーカステラなんか食うかよ

車庫入れに10分かかるきみのため私は動く車庫になりたい

何ひとつできてないのに夕焼けがうつくしすぎて申し訳ない

おれはもうはしゃげないから富士山が見えない側の席でねむるよ

 

(1.2.3 Twitterにて発表)(4.5 ネット歌会サイト「うたの日」にて発表)

 

 

 

私が紹介するのは未来短歌会所属の有村桔梗さんです。

未来短歌会での活動のほか、ネット歌会サイト「うたの日」やTwitterなどでも短歌を発表されていて、昨年、私家版『夢のあとにaprès un rêve』という歌集を出されました。

 

 

私の選ぶ、有村桔梗さんの5首

すべて歌集「夢のあとにaprès un rêve」より

 

この書架のちくま文庫の背表紙が陽にやはらかく褪せてゆく春

(本のある風景)

 

掃除機のコードのやうにしゆるしゆるとからだよ部屋のふとんに帰れ

(はるなつあきふゆ)

 

どうしてもどこに行つたか言はないが木彫りの熊がまた増えてゐる

(はるなつあきふゆ)

 

うかうかとまたも脱線してしまふきみの話に乗つて海まで

(消失点)

 

くらげにはくらげのなやみがあるのかも知れないけれど、くらげはよいね

(ハシビロコフ)

 

 

 

この書架のちくま文庫の背表紙が陽にやはらかく褪せてゆく春

 

陽が傾いてきて夕方になるちょっと前の光の感じ、レースのカーテンか透明ではないガラス窓越し、晴れた日の外からのふんわりした光、輪郭の濃くない陰、しばらく読んでいない文庫本。など、勝手に空想してしまった。

読んだ言葉から想う絵と、その絵から湧く印象がとても好きな一首です。

うまく言えません、言語化すると感じた印象とは違うものになってしまいそう、この歌は写真みたいだなと思った。

 

 

掃除機のコードのやうにしゆるしゆるとからだよ部屋のふとんに帰れ

 

主体はどこにいるんだろう。「掃除機」とあるので、家の中のどこかにいて、ふとんへ、という空想をしたのですが、もしかしてどこか外のすごく遠いところから「掃除機のコードのやうに」家の、ふとんへ、だったら…おもしろいな、とも思いました。

短歌を読むとき、あまり仮名遣いのことを気にしないのですが、「しゆるしゆる」って字の感じ、すごくないですか?時空がゆがんでいるような気持ちになります。

 

 

どうしてもどこに行つたか言はないが木彫りの熊がまた増えてゐる

 

変なシチュエーションだけど、日常には個人的な想いや理由がたくさんあって、他人に理解できることばかりではないし、日常に本当にあったことを詠んだのかも、と思った。

でもなんで木彫りの熊を集めちゃうんだろう。1個でよくないですか?☺️

 

 

うかうかとまたも脱線してしまふきみの話に乗つて海まで

 

会話の楽しいところって、話す前はお互いに想像してなかったところへ意図せず行き着いてしまったりすることで。きっとその人とそのタイミングで話をしていなかったらそこには着いていない、ていうことがたくさんあると思うのです。

歌の中になにもそんな説明はないんですけど、なぜか曇って荒れた海ではなくて、心地よい海を想像しました。海はいいな。

 

 

くらげにはくらげのなやみがあるのかも知れないけれど、くらげはよいね

 

なやみがあるのかも知れない、わからないけどそうかも知れない感じから「くらげはよいね」とふんわりむりやりまとめてしまった会話のようで好きです。きっとなやみがあるのかもしれないし、もしなくてもいいんじゃないか。ふんわり、この歌がくらげみたいです。

 

 

桔梗さんの短歌は、声でいうと大きな声ではないし、よく通る声でもないんですけど、でもなぜかよく聞こえる、そんなふうにいつも思います。

今回5首選ぶにあたってすごく悩みました。歌集「夢のあとにaprès un rêve」とてもすてきです。おすすめしたい歌集です。

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ありがとうございました。

更新予定

5月8日(水) 学生短歌会編 加賀塔子さん

5月15日(水) ネット歌人編 有村桔梗さん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

 お知らせ

○私家版歌集の情報を募集しています。

 

不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

基本的に不採用はありません。文字数制限や締切もありません。

ご自身のTwitterなどで発信した内容を再度掲載することもできます。複数ツイートに渡る内容をつなげれば十分記事として採用できると考えています。その他不明点がありましたらお気軽にお問い合わせください。

たくさんのご意見をお待ちしております。

 

○さんばしは投げ銭を募集しています。詳しくはこちら

 

さんばし声明文〜歌人がすぐれてときめきたまふ国民的スーパースターになるには〜

 こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 〈はじめましての方へ〉(さんばしの活動をご存知の方は次の段落まで飛ばしてください。)

 さんばしは2018年10月に東京大学の学生短歌会、Q短歌会所属の鈴木えてが立ち上げた短歌メディアです。ブログとTwitterで活動しており、同人活動の紹介や若手歌人たちによるリレー企画などを通じて短歌のインディーズ活動[i]を応援しています。詳しくはブログhttps://sanbashi.hatenablog.comをご参照ください。

 

 この声明文にあたって今の短歌市場の問題などを色々考えて書こうと思ったんですが、結局シンプルな答えにたどり着きました。魅力的な歌人が見出されて、みんなの歓声を受ける姿が見たいです。歌人がすぐれてときめきたまふ国民的スターになるような未来をさんばしは見据えています。そのために、さんばしがやることはいくつかあります。

 

1 「儲かる短歌」へ

 歌人が活動を続けていくために、そして持続可能で発展し続ける短歌界にするために、さんばしは「儲かる短歌」を掲げます。商業出版はもちろん、同人活動でも利益が出るくらいに短歌市場を大きく、そして活発にします。そのために、さんばし自身も利益を追求するとともに、さんばしと一緒に活動してくださる方々には相応の報酬をお支払いできるような、そんなロールモデルを模索していきます。

 

2 新しい活動の提案

 近代短歌史以降を概観すると、短歌の活動は結社を基盤とする歌壇が牽引してきました。しかし近年、インターネット環境の広がりとともにそれに収まりきらない活動が増加しています。さんばしはその多様性を推進するとともに、現状すらも疑います。比較的新しい活動場所としては同人、ネットプリント、ネット歌会、SNSなどが挙げられますが、それ以外の活動場所はないのか、もっとおもしろいことはできないのか、常に考えています。短歌の裾野を広げることはより多くの人が短歌に触れ、参入しやすくなること、ひいては短歌人口の増加と1で述べたような持続可能な市場へと繋がるからです。

 

3 短歌のインディーズ活動の応援

 2のような新しい活動が発生する土壌として、短歌のインディーズ活動がとても大切だと考えます。多様性はそのまま多様な可能性です。多くの人がそれぞれの道を模索することで、より多様なアイデアが生まれることが期待できます。また、インディーズの特徴としてフットワークの軽さがあります。それは思いついたアイデアをすぐに実行できる機動力を意味します。このような理由からさんばしは短歌のインディーズ活動を全力で応援しています。ブログ[ii]とTwitter[iii]を通してそのような活動をされている方を紹介し、より多くの人の目に留まるように努めています。

 

 このような目標を通じて最終的にさんばしが目指すのは、冒頭で述べたように、歌人時代の寵児になれる世界です。

 短歌はもっともっとかわいくなれるしかっこよくなれます。渋谷のスクランブル交差点の液晶に短歌が大写しで流れ、若者が競って短歌をSNSに投稿する。愛を短歌でささやき、カラオケで短歌を絶叫する。そんな世界がさんばしには見えています。さんばしはみなさんをそこへ連れて行きます。でもそれは、さんばしを応援してくださるみなさんがさんばしをそこへ連れて行ってくれることでもあるのです。

短歌プラットフォーム「さんばし」代表 鈴木えて

 

[i]短歌雑誌や結社を中心とした伝統的な短歌の場に収まらない活動を指します。同人、SNSネットプリントなどが挙げられますがそれに限定しません。

[ii]https://sanbashi.hatenablog.com

[iii]@sanbashi_tanka

歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第4回 淡島うるさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第4回は淡島うるさんをお迎えします。

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こんにちは、立命館大学短歌会所属の淡島うる(あわしま・うる)です。

北海道出身。最近の楽しみは酒を飲みながら蝋燭の灯りのもとで短歌を毛筆すること。最近の悩みはよく蝋と墨をこぼし、たまに半紙を燃やすこと。

twitter:@ogakuzuJD

note:https://note.mu/ogakuzu

 

自選五首

 

縁側の鉢植えのことを考える 姻族関係終了届

(2017年度短歌道場in古今伝授の里出詠)

 

泣く君に安易に触れてなるものか ?(クエッショニング)の弧のかぼそさよ

(フリーペーパー『こいぶみ』)

 

待ちわびた海風を絡みつけて飛ぶドルフィンエンドルフィンエンド

(「備忘録」/『立命短歌 第五号』)

 

みんなただ湖畔に憩っているみたいなのに花火は始まってしまう

(「トランポリン」/ネットプリントねこまんまvol.4』)

 

雲形のふせんにガムを吐き出して大切だったなんていつか言う

(「パレイドリア」/『立命短歌 第六号』)

 

 

 

私が紹介したい歌人は、早稲田短歌会所属の加賀塔子さんです。

 

 

淡島が選ぶ加賀塔子の5首

 

 

地図上の海を掬ひて塗るような心地をこのむコリアンコスメ

「かりん」2018年11月号)

 

いま一日(ひとひ)会ふことあらば病むわれをいかにおもふか六度目の夏

(「轍」/ネットプリント・わせたん失恋部)

 

昼時の笑ひ話にととのへて心病みしを友らに告ぐる

(「枯れ野まで」/早稲田短歌47号)

 

大枯れ野駆け東の岬まで幾人が来むわれの弔ひ

(同上)

 

また僕を歌にするのと言ふやうにくらき廊下に立てる弟

(「岸に立つ」twitterアカウントより)

 

 

 

地図上の海を掬ひて塗るような心地をこのむコリアンコスメ

 

 

歌会の詠草で出会った歌でした。加賀さんの歌とは知らず、匿名の歌に心奪われたのでした。

「コリアンコスメ」は、私も毎日のように使う、いわば卑近なモチーフです。それを、なんて気高く取り出して見せていることだろうと感嘆しました。

昨今の若者の間における韓国ブームの中でも、特に化粧品は安くてかわいくて実用的で、他の韓国文化にはまっているわけではない私などもつい手に取ってしまいます。日本にも韓国コスメの店舗は増え、おそらく多くの女性にとってなじみ深いアイテムになりつつあると思います。

私はこれを、「コリアンコスメ」という呼び方をしません。肌感ですが、「韓国コスメ」のほうがより一般的な呼称と思います。その違和こそが、今や(私の)日常に膾炙したはずの「コリアンコスメ」のエキゾティシズムを再起させました。

上句に立ち戻ると、異国の化粧品を用いて自らを飾ることを、「地図上の海を掬」うと表す感受性の豊かさに圧倒されます。実際の海ではなく、「地図上の」と書き添えられることで、海を挟んで隣り合う日本と韓国の図像が自然と浮かび上がります。ほとんどその価格を理由に韓国コスメを使っている自分が恥ずかしくなるほど、この主体の持つまなざしの広さと、粧うという行為へ臨む際の気品を感じられる一首でした。

 

 

いま一日(ひとひ)会ふことあらば病むわれをいかにおもふか六度目の夏

 

ネットプリントの共通テーマが「失恋」ですから、この「会ふ」対象は過去の恋愛の相手であるとして読みました。

四句目までのなめらか且つどこか頼りなげな音の連なりと、「六度目の夏」という視覚的にも聴覚的にもきっぱりと響く五句目のおりなす全体の韻律は、直接的に感情を表す語句を持たない歌の演出に大きな役割を果たしています。四句目までは、相手を思い返す心に揺蕩うような様子を見せながら、最後には夏を起点に繰り返された六年間が、重みをもって主体と読み手の前にあらわれるのです。

六度目の夏」は、やはり失恋がテーマということもあり、恋を終えてからの時間でしょうか。主体が想起しているのは、六年前に別れた誰かのことだけではなく、その人とともにいた、健やかだったころの自身をも含むでしょう。主体は単純に過去の相手に慰めを求めているのではなく、健やかな自分のみを知る相手の視点を通して、現在の「病むわれ」を見つめなおしたがっている気がしてなりません。

 

 

昼時の笑ひ話にととのへて心病みしを友らに告ぐる

 

大枯れ野駆け東の岬まで幾人が来むわれの弔ひ

 

 

五首選という都合があるために非常に悩みましたが、企画の趣旨とはずれることを恐れつつ、一つの連作からこの二首を引きたいと思います。ぜひ通して読んでいただきたい連作です。

これは五首連作「枯野まで」における三・四首目であり、前半では、主体が過去に児童虐待を受け、現在は精神的なケアを受けているという文脈が提示されています。

「友ら」が深刻にそれを受け取らないように、決して「笑ひ話」ではないことをそのように仕立てる主体の健気さと、内心に抱えている苦悩と葛藤。しかしこの努力を強いられる機会は、誰しもが一度は経験するのではないでしょうか。だからこそ共感も生まれるのですが、それ以上に私は続く四首目への転換に驚かされました。

「昼時の笑ひ話」から導かれるような、たとえば大学の食堂や教室の景色から一転、読者には眼前いっぱいの「大枯れ野」が突き付けられます。三首目では、主体の行動にも作品自体にも現れず抑圧されていた叫びが、ここに一挙に発露しているようです。

「弔ひ」はこの連作において、決して唐突ではありません。主体が自らの死への思いを抱えていることは、明示されずともこの短い連作に織り込まれていると思います。しかし私は、この二首の描くコントラストに息をのむ心地がしました。まるで私自身が、主体の苦悩や病についてを「昼時の笑ひ話」だとしか思っていなかったんじゃないのかと、見透かすように問われている気がしたのです。

紙幅の都合引用がかないませんが、この飛躍からの5首目におけるなだらかな収束もまた必見です。

 

 

また僕を歌にするのと言ふやうにくらき廊下に立てる弟

 

この歌の収められた連作「岸に立つ」は、障がいを持つ弟と主体との関係を主題としています。

 

加賀さんの作品の主題にはたびたび、病や虐待、貧困など、具体的な苦境があらわれます。

このような作品において、加賀さんの作品の気高さはいっそう際立つように感じます。それを歌う姿勢は、読者におもねることなく、毅然として、しかし同時に歯を食いしばって現実に対峙しているように思います。ほんの一例にすぎませんが、これまで取り上げた作品にもそれは表れています。私はまさに、その歌いぶりにあこがれているのです。

はじめ私は、日常語と距離を置く文語で書かれていることが、その雰囲気の一端を担っているのかもしれないとも考えました。口語でしか歌を作ることのできない私は、それを今も完全に否定することはできません。しかし連作「岸に立つ」を繰り返し読むとき、そこに在る人間や事物、その状況を端的に記述しようとする姿勢が、私の感じるところの「気高さ」「現実への対峙」の因子なのかもしれないと思いました。そしてその気づきは、かえってこのような歌を目立たせました。

 

この一首にひらめくのは、誤解を恐れずにいえば、加賀塔子という作者と主体が交わる瞬間です。これまで淡々と(またはそう努めて)つづられてきた連作が、迷いを見せる一瞬でもあります。

なお、この歌以前には、この「弟」が話せる言葉がほんのいくつかに限られている、という情報が示されています。実際に「また僕を歌にするの」と言うことのできない「弟」からそう言われる心地がするのは、前述したような事実の端的な描写というよりも、主体の深層にある虞れの反響だといえるでしょう。言葉を操ることのできる自分が、歌にされるということの意味を理解しているのかも不明である「弟」を詠み、発表する。そのことへの葛藤が滲み出ているように思います。感情の揺らぎがほかの歌よりも直接的に表出しているこの一首に私は、歯を食いしばるような主体を、作者の影を認めます。このような歌があるからこそ、私はほかの歌や連作全体に、空虚な気位の高さとは違う、そうあるべしとして築かれた尊い気高さを覚えるのです。

 

 

加賀作品の幅広さと奥深さを引き出すには拙い紹介文となりましたが、より多くの方が加賀さんの作品に触れる一助となれば幸いです。

 

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ありがとうございました。

更新予定

5月1日(水) ネット歌人編 nu_koさん

5月8日(水) 学生短歌会編 加賀塔子さん

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【私家版歌集紹介】藤井夏子『天使2020』

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。しばらくぶりに私家版歌集の紹介です。

 

 

東京の地上何もない場所でさもなんと3回となえるおまじない
 
大きくて見えないところも好きよって月のくぼみを優しくなでる
 
心の散弾銃持たない私は八重歯をピカピカに磨きます

 

私家版歌集紹介、第21回は藤井夏子『天使2020』です。

 

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〈書籍詳細〉

藤井夏子『天使2020』

定価

 

〈購入できる場所〉

通販

Base

中野ブロードウェイタコシェ」 

〈著者より〉

 

少しだけ未来の東京を舞台にした短歌を20首収録した歌集です。
イラストは小学校の時に交換日記をしていた友人のすながちひろんが描いてくれました。

 

 

 

さんばしでは私家版歌集の情報を募集しています。sanbashi.tanka☆gmail.com またはTwitter@sanbashi_tankaのDMまでお寄せください。

投げ銭こちらまで。

歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第8回 しま・しましまさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

さて、今回は歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編第8回です。しま・しましまさんにご寄稿いただきました。

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自己紹介

 

こんにちは、しま・しましまです。

2014年末から短歌を始めました。

初めて買った歌集は兵庫ユカさんの「七月の心臓」でした。

ネット歌会うたの日育ちで、チコ&トレースというユニットで「とらぬたぬきうどんでおなかをふくらます唯一の方法」というネットプリントを月一で出したり、ツイッターで短歌を流したり、私家版歌集「しあわせな迷子」をつくってみたりして遊んでいます。

未来短歌会にも所属しています。

 

自選5首

 

ある日オウムがきみそっくりに「ねえ」と言う いつかビールをこぼした窓に

踏み切れないぼくらの名前はぐらとぐら「痛いんじゃない?」「怖いんじゃない?」

ひっそりとこの世の端で生きているつもりのお腹を鳴らしてしまう

アンディは何度もウッディを手離しあなたは何度もそこで涙ぐむ

(『私家版 しあわせな迷子』)

眼鏡屋の眼鏡フレームあかるくてどれ試してもすっと冷たい

(『未来』2017年6月号)

 

わたしが紹介するのはnu_koさんです。

結社には所属せず、うたの日、うたよみんなど主にインターネットで活動されています。

nu_koさんの短歌は平明な表現で普遍的なシーンを描きながら、どこか、んんっと立ち止まらせる何かのあります。普段は意識しないでいる侘しさだったり幸せだったり、そういう繊細な感覚が何気ない感じにぽいと目の前に出されてしまうと、ちょっと胸がざわついてしまう。そんなところが魅力と思っています。

 

わたしの選ぶ、nu_koさんの5首

 

歯医者には5巻がなくて最後まで死んだ理由がわからなかった

大切な棒をなくして公園を宇宙に変える線が引けない

おれはもうはしゃげないから富士山が見えない側の席でねむるよ

(うたの日)

ああこれはとても大事なことだから鼻血のティッシュ抜いてから言う

ツイッター

ころされる夢はいい夢らしいよとぼくをころした人がいう朝

(うたの日)

 

 

歯医者には5巻がなくて最後まで死んだ理由がわからなかった

 

うたの日の「少年マンガ」という題に出されたうた。読者それぞれにそれぞれの経験に基づく歯医者観、歯医者の待合室観があるだろうけれど、歯医者で順番を待つシーンが鮮やかに浮かんで来るうたと思います。ずらっと揃った長編の少年マンガ。なぜかない5巻を飛ばして6巻7巻と読み進めていくなかで、一人の登場人物の死が飛ばされていて、「死んだ理由」が分らなくても物語は読めてしまうという。主体もそれ以降の別の場所でもその「死んだ理由」を求めたりしないで済んでいるのかも知れません。それはうっすらと怖い話なような気がするんです。

 

大切な棒をなくして公園を宇宙に変える線が引けない

 

うたの日の「棒」という題で出されたうた。子供時代の空想力を、その時に使ったアイテム「棒」に置き換えているようであり、いやもしかしたら「棒」が本当に大切なキーアイテムだったのかも知れないと思わせられます。きれいに整備された公園(このうたの場合は地面が土の児童公園でしょうか)には、もう木の棒なんていつでも落ちているわけではないのだから。

 

おれはもうはしゃげないから富士山が見えない側の席でねむるよ

 

うたの日の「側」の題詠。新幹線での一コマでしょうか。ほのぼのと侘しくてたまらないなと思うのだけど、それを上手く表現出来なくて申し訳ないです。

 

ああこれはとても大事なことだから鼻血のティッシュ抜いてから言う

 

このうたもほのぼのと侘しい。鼻にティッシュをつめて鼻血をとめている人というのがまず間抜けで、そんな間抜けな様子の人が、大事な話をするのに、おもむろにそのティッシュを抜くという行為がより間抜けな感じで侘しい。

 

ころされる夢はいい夢らしいよとぼくをころした人がいう朝

 

題詠が基本のうたの日に月一回ある「自由詠」の回に出されたもの。何気ない日常の、もしかしたら誰にでも経験のあるような事で、もしかしたら軽く笑って忘れられるようなシーンかも知れないけれど、背中がうっすらと寒くなるうたと思います。「ころされる」「ころした」というあえて柔らかく幼い感じのするひらがな表記で書かれた不穏なフレーズが、周到に用意された主体の「なんでもないこと」のポーズのように思える、と言ったら深読みしすぎなのかも知れませんが。

 

 

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ありがとうございました。

更新予定

4月24日(水) 学生短歌会編 淡島うるさん

5月1日(水) ネット歌人編 nu_koさん

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歌人リレー企画「つがの木」〜学生短歌会編〜第3回 瀬田光さん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

歌人リレー企画「つがの木」の学生短歌会編、第3回は瀬田光さんをお迎えします。

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自己紹介

こんにちは、立命館大学短歌会所属の瀬田光(せた・ひかり)です。

1998年11月20日生まれ、歌歴は2年ほどです。

好き:ラーメン、蕎麦

嫌い:ネギ(味が嫌)

Twitter:@setabright

 

自選5首

手放した犬が駆けてく海の中は給食室の匂いがした

(淡島うるさんの「パラフィンペーパー・パラダイス」に寄せて/『Crescent Chocolat vol.2』)

ケーキの箱をふりかざし波ぎわを飛び越えてくる幸せな奴

ペカンの木をみつけて喜ぶ友だちの名前の意味に今さら気づく

出会ったときと同じ構図で口もとにサンドイッチを押しつけられる

(「光たるもの」/『立命短歌第6号』)

冬の排気ガスはおいしいという持論 出がけに花瓶を倒したままだ

(瀬田のiphoneのメモ帳より)

 

作品は基本的に立命短歌にしか寄稿していませんが、企画などお誘いいただければ積極的に参加させていただきたいと思っています。

 

さて、今回私が紹介させていただくのは、同じく立命館大学短歌会に所属する淡島うるさんです。

(以下、前置きが長いので忙しい方は「瀬田が選ぶ淡島うるの5首」から読んでください。)

大学に入学するまでほとんど短歌というものを読まず、また詠まず、学生歌人の作品に至っては殆どふれたことすらなかった私の短歌観は、立命短歌会に所属してまず目にした淡島さんらの作品によって塗り替えられ、そして拓かれました。それまで短歌の世界を観測する目すら持たなかった人間が、彼女らの歌の感性を移植されることによって、他者の歌の中に立ち現れる風、色、匂い、光、切なさというものをより豊かに感じ取るすべを得たのです。

まだまだ借り物の目を通して間接的に短歌を鑑賞しているような節はありますが(少し不誠実な書き方かもしれません、すみません)、それでも手探りで誰かの心とその表現にできるかぎり寄り添おうとする作業は、私に得難い嬉しさを与えてくれます。

長々と語りましたが、とにかく私の短歌鑑賞の原点は淡島さんをはじめとした立短会員の作品との出会いです。なかでも淡島さんの作品は、まぎれもない他者の言葉でありながら、だからこそ、何が詠まれているのか分かったと感じたときにいっそう強い共鳴を覚えるというパターンを私にはじめて教えてくれた原点中の原点です。

ですから今回は少し初心にかえって、淡島さんの作品群の中から5首引かせてもらい、ひとつひとつ読んでいけたらと思っています。

 

瀬田が選ぶ淡島うるの5首

葡萄牙製のココアの練り方を忘れた祖母は帽子が似合う

(「金木犀とゴキブリ」/『立命短歌第四号』)

寄ってきたうさぎの目脂だらけの目 豪雨の中に突っ立っている

(「バッファ」/ネットプリント『いちろくみそひと同期会』)

志を持て志 オムレツにだけはいっぱいバターを使う

(「トランポリン」/ネットプリントねこまんまvol.4』)

りつぜん、と聞くとき高い空があってずっといい意味だと思ってた

不可解な経緯を愛とまとめれば スナメリ やっと生きたさに泣く

(「パレイドリア」/『立命短歌第六号』)

 

淡島さんの短歌にはしばしば、まるで作者の記憶の中からそこだけ切り取られてポンと歌に放り込まれたような、比較的具体的で輪郭のはっきりとしたモチーフや情景が描かれます。確固たる世界観から引き抜かれてきたそれらのモチーフは、独自の世界観を作者と完全には共有することのできない読み手に対し、不思議な存在感をもって迫ってきます。

例えば、

 

葡萄牙製のココアの練り方を忘れた祖母は帽子が似合う

 

ここで描写されるのは、ただの粉末ココアではありません。あくまで「葡萄牙製のココア」というアイテムなのです。粉末ココアに「葡萄牙製」というものものしい属性が付加されることによって、読み手の日常にもありふれたありきたりなモチーフは、完全に作者独自の生活・世界観に根差したものとして確立されます。さらに、ココアをミルク(またはお湯)に溶かす前にきちんと練っておくというこの家庭の生活の知識も相まって、作品はある種の強烈な私性を帯び始めます。強烈でありながらも、淡々としていてくどすぎない私性です。

 このような歌を前にしたとき、私はいつも友達の家の調度品や日用品を眺めているときのような感覚に陥ります。他の家庭という別世界の構成物がふと目に入った瞬間の、何とも言えない居心地の悪さと好奇心の掻き立てられる感じ。けれどもそれは不思議と不快なものではありません。作中主体とはかけはなれた環境で生活する読み手に対しても、この歌に登場するモチーフは平等に同じ距離感でそこに現れます。この歌の表現はそれだけの力を持っているように思います。

たとえ描かれているものが自分の世界にはないアイテムや習慣であるとしても、私たちは具体的で明確な描写によってそれらを追体験し、葡萄牙製のココアの缶や、かつてココアの粉末を練った祖母の手つきをすぐそこに感じることができるのです。

 実際問題、私にとっては「葡萄牙製のココア」もそれをペースト状に練ってから溶かすという習慣も、あまり馴染みのないものです。しかし、もしこれらが自分の世界に当たり前に存在するものであったとしたら、果たして私はそれをあえて短歌に表現しようとしたでしょうか。そのことを考えると、しみじみ淡島さんには敵わないなあと思わされます。

なんだかモチーフ選択の話ばかりで歌そのものの話があまりできていないのですが! そういえば「葡萄牙ポルトガル)」という表記にも淡島さん独特の感性が表れている気がします。ココアを練って飲んでいた、帽子の似合う祖母の丁寧な暮らしに似つかわしい言葉選び。日々繰り返されていた祖母の生活に突然訪れた忘却は、やはり老いによるものでしょうか。ココアと帽子というどこか幼さを感じさせるモチーフは、忘却によって人にもたらされるある種の無垢さを示しているようでもあります。

 

淡島作品に登場するモチーフの具体性、独特の着眼点は、次の作品にも見られます。

 

寄ってきたうさぎの目脂だらけの目 豪雨の中に突っ立っている

 

うさぎはとてもかわいいので、短歌にしたいと思う人はきっと掃いて捨てるほどいます。しかし例によって例のごとく、ここで描かれるのはただのうさぎの姿ではありません。「寄ってきたうさぎ」の、「目脂だらけの目」なのです。

詩歌の中だけに限らず、動物のリアルな生理現象というのはとかく無視されがちだと思います。注目されてもせいぜい犬猫の糞尿くらいでしょうか。仕方のないことですが、世の中には動物の無垢さ、姿かたちの愛らしさ、生態の逞しさなど、そのきれいな面にばかりフォーカスした表現が氾濫しています。

その点、引用歌では「寄ってきたうさぎ」というひとつの命が持つ不浄な部分が容赦なく言い当てられており、思わずはっとさせられます。宮崎駿もののけ姫』に登場する乙事主の老いて白く濁った瞳をほうふつとさせるような、目脂にまみれたうさぎの目。野生にしろ放し飼いにしろ室内飼いにしろ、そこには自然ひいては世界の残酷さ、容赦のなさが正しく表れているのではないでしょうか。

下句では、そういった世界の容赦のなさが「豪雨」という自然現象につながり、主体に襲い掛かります。「豪雨の中で突っ立っ」ている主体の呆然とした感じに淡々とした語調が似つかわしく、やりきれなさがつのります。

 

志を持て志 オムレツにだけはいっぱいバターを使う

 

志を持て志、という独特のフレーズが妙に板についていて、好きな歌です。主体は常日頃からこうやって自分を律する言葉を唱えながら生きているのでしょうか。やはり自分には到底思いつかないような言い方であるからこそ、魅力を感じてしまいます。このフレーズの面白さが「オムレツにだけはバターをいっぱい使う」という何てことのない部分にも効いており、歌全体に一つの筋を通しています。

この「志」というのは、オムレツ以外にはバターをあまり使わないというダイエットの意思を表しているのかもしれないし、もしかしたら全く別の予想も通貨ないような「志」のことを言っているのかもしれない。どちらの読み方をしても良いと心から思えるほど、「志を持て志」という言葉は秀逸であると感じます。

 

りつぜん、と聞くとき高い空があってずっといい意味だと思ってた

 

主体の実感を述べることに終始した歌で、「慄然」という語を知らなかった頃のことを覚えていない読み手にとっては、他人の過去の発見と驚きが書かれているだけの歌に過ぎないはずなのに、こんなにも共感を覚えてしまうのはなぜだろう。

ひらがなで書かれた「りつぜん」という語は確かに涼やかで、青く晴れた夏の空を思わせます。ら行の音が語頭に立っていることがやはり大きいのでしょうか。「高い空」が「いい意味」に直結する主体の連想にも共感せずにはいられません。

また、「りつぜん」の語の響きから「高い空」を連想していたということを、ただ「高い空があって」と表現する言語感覚にはしみじみ感嘆してしまいます。共感覚的にぱっと情景を連想する様子と、「りつぜん」を言葉の意味を知らない幼さが効果的に表現されているように思います。

 

不可解な経緯を愛とまとめれば スナメリ やっと生きたさに泣く

 

「不可解な経緯」が何を指しているのか、それは読み手によってさまざまな解釈があるでしょうが、主体はこのよくわからないいくつかの出来事を他者から自分への(もしくは自分から他者への)「愛」なのだと結論づけ、そのことによって救われ、「やっと生きたさに泣く」ことができるようになります。

引用歌の導入部分と結論部分の間に挟まる「スナメリ」という単語は、一見前の文脈とも後ろの文脈ともつながっているようには見えず、唐突といえば唐突な言葉なのかもしれません。しかし、「スナメリ」という語感の気持ちよさはそのような違和感を払拭するには十分すぎるほどです。導入から独特のスピード感を持った引用歌は、「スナメリ」という語の割り込みによって失速するどころか、かえって不思議なメリハリの良さを獲得しています。

意味を考えずともすでに魅力的な「スナメリ」の語ですが、一応触れておくと、背びれのないつるんとしたイルカ、という感じの、ちょっと間抜けなフォルムをした海洋生物です。なんだかやけに愛しい顔をしている。泳ぎにくそうな体の構造をしている分、その躯体にはものすごい濃度の命が詰まっているように見えます。そのスナメリを目にしたのか、思い浮かべたのか、とにかく主体はスナメリのイメージと共に、泣くほどに生きてゆきたいと感じる気持ちを手にするのです。

「生きたさに泣く」というフレーズには不穏な背景も読み取れなくはないですが、私はあくまで明るく前向きな言葉であると解釈しています。日常の中の不可解な出来事、愛、スナメリの泳ぐ浅瀬には、仄かな光を感じます。その仄かな光の中で、主体は自分が生きていくということを肯定するのです。

 

 

 ここで紹介した歌はどれも、淡島さんの優れた言語センスがいかんなく発揮された作品です。作品に込めるべき私性を守りながら、読み手の共鳴を誘う淡島さんの短歌のさじ加減は絶妙で、卓越した言語表現の技術をうかがわせます。

ここに引用した以外の短歌、連作などもすぐれた作品ばかりですので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思っております。

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ありがとうございました。

更新予定

4月17日(水) ネット歌人編 しま・しましまさん

4月24日(水) 学生短歌会編 淡島うるさん

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 お知らせ

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不定期連載「短歌界とジェンダー」は持ち込み型の企画です。ご寄稿をお考えの際はsanbashi.tanka@gmail.comまたはTwitter@sanbashi_tankaのDMまで概要をお知らせください。

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歌人リレー企画「つがの木」〜ネット歌人編〜第7回 ナタカさん

こんにちは、短歌プラットフォーム「さんばし」です。

 

さて、今回は歌人リレー企画「つがの木」ネット歌人編第7回です。ナタカさんにご寄稿いただきました。

 

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自己紹介

こんにちは、ナタカです。

2013年からインターネットを中心に活動しています。結社には所属せず、不定期でネットプリントを配信したり、ときどき短歌連作サークル『あみもの』や短歌なzine『うたつかい』に短歌を投稿したりしています。

昨年『ドラマ』という私家版の歌集を作りました。 以下で購入可能です。

・葉ね文庫(大阪・中崎町hanebunko.com

・がたんごとん(北海道・札幌)gatan-goton-shop.com

・通販サイトbooth utanataka.booth.pm/items/890168

 

自選5首

 

お客様さま起きてください終点です 晴れた夜ですまだこの世です

(うたの日 題「です」)

あぽすとろふぃ、えす 僕はもうこれ以上だれのものにもならないからな

(『ドラマ』Ⅴ)

あじさいは骨まで青い まだ誰も見たことがないあじさいの骨

(『ドラマ』Ⅶ) 

ひばりひばり あまり早くに来てはだめ 冬とは深い崖なのだから

(『ドラマ」ⅩⅠ)

夢で桶屋をひらいていたよ風が吹くたびにうれしいうれしい桶屋  

ツイッター

 

私が紹介するのは、未来短歌会に所属されているしま・しましまさんです。毎月、同じく未来短歌会の雀來豆さんと短歌のネットプリント『とらぬたぬきうどんでおなかをふくらます唯一の方法』を発行されています。

2019年2月には私家版の歌集『しあわせな迷子』を発行されました(現在は購入受付が終了しています)。

 

私の選ぶ、しま・しましまさんの5首

ハーゲンダッツ買って行くから またこわいわるい二匹のうさぎになろう

(うたの日 お題『悪』 )

きみのスナフキンで涙を拭きました。すみません、鼻もかみました。

(『私家版 しあわせな迷子』)

はる風になるまでふつうの犬だった 枯野にころがりまわるなどして

(『私家版 しあわせな迷子』)

HEY SIRI サバンナのきりんが膝をつきまた立ち上がるところを見せて

(『私家版 しあわせな迷子』

昨日からの雨つよい雨よわい雨 ジミー・ウェールズそろそろ寄付は集まったかい

(『私家版 しあわせな迷子』)

 

しまさんの歌には、童話や童謡のようなやさしさがあります。どこか懐かしような、切ないような、けれどその切なさは胸を締め付けるような種類のものではなく、たとえば幼いころに大好きだったぬいぐるみの匂いのような、やさしい気持ちになる切なさです。

 

ハーゲンダッツ買って行くから またこわいわるい二匹のうさぎになろう

 (うたの日 お題『悪』 )

「こわいわるい」はひらがなだから、本当に凶悪なうさぎになるわけではない。相手を励ますためなのか労うためなのか、それともなんにも理由はないのか、なんにせよ生きていくためにはときにハーゲンダッツが必要なのだ。こわいなー、わるだなー。

うさぎは寂しいと死ぬという。二匹のうさぎという言葉に、寂しさを埋め合うような二人を思った。二人でわるいことをするのは、一人でわるいことをするときとはまた違った背徳感がある。共犯者と秘密を分け合うという背徳感である。「また」だから、今までもこうして一緒にやってきた二人なのだろう。そして、これからもそうだと良い。

 

きみのスナフキンで涙を拭きました。すみません、鼻もかみました。

(『私家版 しあわせな迷子』)

句またがりが心地良い。「スナフキン」の音が布巾に似ているからと言って、何かを拭いて良いわけではない。しかも他人のスナフキンであるし、鼻もかんでいるし、事後報告であるし。なんだかめちゃくちゃだけれど、これはきみもスナフキンもそんな行為を(そしてそんなことをしてしまうちょっとだめでカッコ悪い自分を)許してくれるだろうという主体の甘えのような、信頼のようなものが表れていて、ああ、良い関係、優しい世界だなあと思う。涙を拭いたと言ったあとで、「実は鼻も……」と白状するのも素直でかわいらしい。こんなことを言われたら、許してしまうではないか

 

はる風になるまでふつうの犬だった 枯野にころがりまわるなどして

(『私家版 しあわせな迷子』)

「ふつうの犬だった」が良いと思う。今はもうふつうの犬ではないけれど、かたちを変えてどこかでまだ犬であるような、はる風としてときどき来てくれるような、そんな気持ちがする。この人は犬と一緒に来た枯野を見るたびに、もうころがりまわることのない犬のことを考えてしまうだろうけれど、ふつうの(でもこの人にとっては唯一無二の)犬は、はる風となってこの人と共にあるのだ。亡くなった生き物が風になるという発想自体は有名な楽曲にもあるように珍しいものではないけれど、先に書いた「ふつうの犬だった」という表現や、下の句で元気な頃の姿がイメージできることから、じんわりと優しい気持ちになれる歌だと思う。この歌を読むと、いつも鼻の奥がつんとする。

 

 HEY SIRI サバンナのきりんが膝をつきまた立ち上がるところを見せて

(『私家版 しあわせな迷子』

しまさんの歌には字余りがしばしば使われていて、ゆるやかで柔らかい印象を受ける。 字余りでもたつく上の句から、きちんと定型に収まっている下の句へ。それはまるで、このきりん(うまれたての仔きりんだろうか)がよろめいたあとすっくと立つさまのようである。動物園ではなく、立ち上がれるか否かが生死に直結するサバンナが舞台であることも、この歌の魅力を引き立たせている。

膝をついた野生動物が立ち上がろうとするとき、そこにあるのは生命の脆さと強さ、生きようとする本能(あるいは意思)、そして希望だと思う。この動画をSIRIに求める主体もまた、膝をつきまた立ち上がろうとしているのではないだろうか。動画を再生するたびに立ち上がるきりん。そう、何度だって。

 

昨日からの雨つよい雨よわい雨 ジミー・ウェールズそろそろ寄付は集まったかい

(『私家版 しあわせな迷子』)

格好良い!と叫んで終わりたいくらいなのだけれど、もう少し書く。(本当は、書けば書くほどこの歌の良いところを言えていないような気持ちになってしまう。) 字余りというより破調。上の句に三度使われる「雨」が印象的。強くなったり弱くなったりするばかりで止む気配のない長い雨。間延びしたような時間が流れる。機械的に表示される寄付のお願い。「集まったかい」という言い方には「集まっていなくともさほど問題ではないけれどね」とでも言いたげな軽やかさがあるし、Wikipediaの共同設立者である「ジミー・ウェールズ」がこの歌では不思議と冒険小説の登場人物であるかのような趣が表れている。

 

 

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ありがとうございました。

更新予定

4月10日(水) 学生短歌会編 瀬田光さん

4月17日(水) ネット歌人編 しま・しましまさん

変更の可能性がありますので、最新情報はTwitter@sanbashi_tankaをご確認ください。

 

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